ヒット曲けんきゅうしつ

なぜヒットする?は証明できないと思います。誤字はちょっとずつ修正します。

「霧のカレリア」ザ・スプートニクス(昭和41年)

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流行時期(いつ流行った?)

 昭和40年代、エレキギターの演奏は世界中で流行していたようです。日本ではベンチャーズさんが支持されましたが、ベンチャーズさんに続いて支持を集めたのは、北欧スエーデンのグループ、ザ・スプートニクスさんでした。

 

 ザ・スプートニクスさんは「霧のカレリア」が昭和40年末から昭和41年初めにかけてヒットしました。年単位で区切ると、昭和41年の方がヒットの規模が大きいため、昭和41年のヒット曲にさせていただきます。

 

 『ミュージックマンスリー』のランキング推移は下記の通りです。

 

集計日付 順位
昭和40年10月 15位
昭和40年11月 4位
昭和40年12月 1位
昭和41年1月 1位
昭和41年2月 1位
昭和41年3月 2位
昭和41年4月 14位

 

 

テンポよりメロディの価値観を持つ作品

  ザ・スプートニクスさんの作品は、ベンチャーズさんが表現する音楽とは全く異なる価値観を備えています。それは、新しい楽器が奏でる音色をスピード感で表現するのではなく、メロディを重視されている点です。

 

 『アメリカのベンチャーズさん 対 ヨーロッパのザ・スプートニクスさん』といった構図でしょうか、ヨーロッパのエレキサウンドは、メロディが良いかどうかが作品の評価基準だったのかも知れません。

 

 たしかに映画音楽の世界で考えると、日本人でも理解できるメロディの良さが尊重されているように感じます。昭和3、40年代に登場したエレキギターという電子楽器に対しても、ヨーロッパの人たちは、「そのような音色でどのような音楽を作るつもりなのか?」と疑っていた事と思います。

 

 結果として評価されたザ・スプートニクスさんの作品は、米国と西洋の音楽に対する価値観の違いを暗に示しているようで興味深いです。

 

 そして、それを支持された方々はベンチャーズを支持する層とは若干異なるように思います。

 

 それが年齢層だったのかどうかは、月間の売上ランキングだけでは分かりませんが、3ヶ月連続で首位を獲得した「霧のカレリア」のヒットの背景には、レコード会社が1、2年かけても見つけられなかった支持層がいた事を物語っているように感じます。

 

昭和41年もエレキギターブームが続いていた

 エレキギターの演奏曲が初めて登場したのは昭和39年です。この年の代表的なヒット曲には、ノッテケ×2のアストロノウツさんの「太陽の彼方に」や、ウイリーと彼のジャイアンツさんの「恋のときめき」があります。

 

 昭和40年にベンチャーズさんが次々とヒット曲を記録し、『勝ち抜きエレキ合戦』というテレビ番組が企画されるくらいのブームとなりました。おそらく、ピークとなったのはこの年と思われます。

 

 ザ・スプートニクスさんが登場したのは、日本中にエレキギターの演奏曲が浸透した昭和41年です。

 

 登場されるまでに、日本で支持されていたエレキギターのインストールメンタル作品は、テンポが早く、同じメロディを繰り返すような、リズム感のある作品ばかりでした。

 

 その中で、エレキギターの音色で愁いを感じさせるメロディを演奏する「霧のカレリア」が支持を得ました。

 その後「空の終列車」、「涙のギター」と、ザ・スプートニクスさんのヒットが続きます。

 

 

洋楽と邦楽のあいだ

 昭和41年はヒット曲の歴史では特別な年です。それは、洋楽レーベルと邦楽レーベルを別々に集計する事が一般的だった時代に、洋楽を目指した邦楽作品が洋楽レーベルのランキングに登場し始めた事です。

 

 「バラが咲いた」やスパイダースさんの作品が、洋楽ランキングに登場し始めた年です。

 

 エレキギターで演奏するグループの作品にも変化がありました。ベンチャーズさんは、昭和41年の代表的な日本のヒット曲、加山雄三さんの「君といつまでも」をレコード化され、ザ・スプートニクスさんも、すぎやまこういちさんの作曲された「涙のギター」の演奏をレコード化されています。

 

 どちらもヒットしましたが、海外歌手が国内の作品を取り上げた事、その作品が支持された事に価値観の変化を感じます。

 

 コニー・フランシスさんをはじめとして欧米の人気歌手がファンのために日本語で吹き込んでくれたカヴァー・ポップスの時代とは違い、エレキの時代では、「海外アーティストが日本の音楽を認めてくれたのではないか?」と個人的に感じています。

 

 

 バンドプロデューサーの分析では、「霧のカレリア」はBマイナー(ロ短調)です。演奏曲なので聴く作品と感じますが、分かりやすい繰り返しで気分を高揚させる作品というより、鑑賞するような、癒し系という表現も違うと思いますが、方向性は似ていると感じる作品です。

 

曲情報

 発売元:日本グラモフォン株式会社

 品番:DP-1449

 A面

  「霧のカレリア」

  原題:KARELIA

  演奏時間:2分20秒

 

 B面

  「ハバ・ナギラ」

  原題:HAVAH NAGILA

  演奏時間:2分14秒

 

参考資料

 「霧のカレリア」レコードジャケット

 『ミュージックマンスリー』月刊ミュジック社

 「バンドプロデューサー」

「恋の合言葉」モンキーズ(昭和42年)

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流行時期(いつ流行った?)

 モンキーズさんの「恋の合言葉」は昭和42年にヒットしました。『レコードマンスリー』のランキングによると、10月から12月にかけてヒットしたようです。

 順位はそれほど高くないものの、5ヶ月間ランクインするロングセラーとなった作品です。

 

集計日付 順位
昭和42年9月 21位
昭和42年10月 11位
昭和42年11月 15位
昭和42年12月 11位
昭和43年1月 16位

 

 12月に順位を上げていますが、この時期には「モンキーズのテーマ」がヒットしていた事が影響していると考えられます。当時、モンキーズさんのファンになった方が「恋の合言葉」と「モンキーズのテーマ」の2枚のレコードを購入されたのかも知れません。

 

第二のビートルズ

 モンキーズさんはアメリカ出身のグループですが、英国のビートルズさんを意識して結成されている事が分かります。

 

 日本で最初にヒットしたのは「恋の終列車」です。モンキーズさんのデビュー曲ですが、曲調は「ビートルズさんの作品かな?」と感じてしまうくらい、グループの個性が描かれていない作品です。

 

 「恋の終列車」の後、「アイム・ア・ビリーバー」、「恋はちょっぴり」が発売されますが、『レコードマンスリー』のランキングでも売上順位や流行期間は徐々に縮小していました。

 

 おそらくビートルズさんの二番煎じのグループと認識されつつあったのだと推測されます。

 

 デビュー曲が華々しくヒットしたモンキーズさんですが、その後に続く人気が下降ぎみだった時期、日本では英国出身のウォーカー・ブラザーズさんが人気を集めていました。

 

 ウォーカー・ブラザーズさんもモンキーズさんもビクターさんから発売されています。おそらく東芝さんのビートルズに対抗できる人気グループを作りたかったのでしょう。

 昭和42年は“第二のビートルズ”という宣伝文句で、男性グループを推していたように感じます。

 

再び人気を集めた作品

 ビートルズさんの二番煎じのイメージを払拭した作品が「恋の合言葉」であると感じます。

 

 

 音楽については素人なので、作品のどこで個性が感じられるのかをうまく説明できませんが、「恋の合言葉」を聴いてもビートルズさんのフィーリングは感じられず、モンキーズさんの作品であると感じます。

 

 聴き手は、バックの演奏やボーカルの歌声が「どこかで聴いた事がある。」と感じ取れてしまうと、「あの作品に似ている」と感じます。しかし、「恋の合言葉」を聴いたときには、その感覚が生まれません。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「恋の合言葉」はAメジャー(イ長調)です。

 

曲情報

1967年 年間33位(洋楽・邦楽ポピュラー部門)

 

 

レコード

 発売元:日本ビクター株式会社

 品番:SS-1760

 A面

  「恋の合言葉」

  原題:WORDS

 

 B面

  「プレザント・バレー・サンデイ」

  原題:PLEASANT VALLEY SUNDAY

 

参考資料

 「恋の合言葉」レコードジャケット

 『レコードマンスリー』日本レコード振興

 「バンドプロデューサー」

「WE ARE THE CHAMP~THE NAME OF THE GAME~(Anderlecht Chanpion)」THE WAVES(平成5年)

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 平成5年にJリーグが開幕し、ヒットチャートに初めてサッカーをテーマにした作品が登場しました。THE WAVESさんの「WE ARE THE CHAMP~THE NAME OF THE GAME~(Anderlecht Champion)」です。

 タイトルよりも、オーレとかオレオレオレと表現した方が分かりやすいかも知れません。

 平成5年4月に発売され、5月末~7月初めにかけてヒットしました。

 

 ヒット曲と関わりが深いスポーツと言えば、野球や大相撲だった昭和時代ですが、平成に登場したサッカーは、それらと肩を並べるくらいの多くのファンを獲得したと感じます。ワールドカップが開催される年の盛り上がりは日本に定着しています。

 

 この作品は原曲が海外の作品です。B面に収録されているTHE FANSさんの歌唱が原曲で、このラップ詞が追加された盤は昭和62年に発表されていたようです。

 それよりも前にもオリジナルの作品が存在しているようです。

参考サイト:https://secondhandsongs.com/performance/595867/versions#nav-entity

 

 

 CDジャケットには“日本サッカー協会公認’93日本代表オフィシャル応援歌”と記載されています。応援歌というと、サッカーには他のスポーツと異なる点が1つだけあります。いつから存在する単語か分かりませんが、アンセムという代名詞があります。

 

 どちらかと言うと応援歌というより、選手をたたえる音楽のように感じますが、FIFAワールドカップが開催される年になると、出場国のヒットチャートにはサッカーをテーマにした作品が製作されます。

 そして優勝した国では、クイーンさんの「WE ARE THE CHAMPION」がアンセムとしてヒットチャートに姿を現します。

 

 

 数回聞いただけで記憶に残ってしまうフレーズを、曲中に何度も繰り返す「WE ARE THE CHAMP」は、応援歌の性質を備えていると感じます。

 洋楽ながら、子供でも歌えるような、分かりやすい英単語ばかりで構成されている事もそう感じさせる理由かもしれません。

 

 この作品の歌詞カードには和訳は掲載されておりません。その代わり、英語の歌詞の隣に、カタカナで英語の発音を掲載しています。

 おそらく英語を習っていない子供たちでも歌えるように、という目的でカナ表記を掲載していると感じます。

 

 タイトルのカッコ書きに記載されているAnderlecht(アンデルレヒト)はベルギーの街の名前です。私は全く詳しくないので、ググってみると、有名なサッカーチームの本拠地なんですね。そして、チームが創設された年が1908年(明治41年)。

 

 ・・・サッカーの歴史の長さを感じます。平成に入ってからJリーグ誕生と同時に、サッカーを通じて様々な国の文化も見えてきましたので、これからも競技にまつわる新しい音楽が登場する事を楽しみにしています。

 

 

曲情報

 発売元:株式会社ポニーキャニオン

 品番:PCDH-00011

 A面

  「WE ARE THE CHAMP~THE NAME OF THE GAMES~(Anderlecht Champion)」 

 B面

  「THE NAME OF THE GAMES(Anderlecht Champion)~Original Version~」 

 

参考資料

 「WE ARE THE CHAMP~THE NAME OF THE GAME~(Anderlecht Champion)」CDジャケット

 『オリコンチャート・ブック アーティスト編全シングル作品』オリコン

 「you大樹」オリコン

「ランバダ」カオマ(平成2年)



 カオマさんの「ランバダ」は平成元年11月に発売されました。この曲の人気に火が付いたのは翌年になってからです。オリコンチャートでは、4か月後の翌年4、5月に上位にランクインしました。

 平成のヒットチャートではかなり珍しくなった洋楽シングルのヒット曲、ラテン音楽の作品です。

 

 

 「ランバダ」のCDジャケットには“今年最大のスーパー・ヒットがやってきた。世界で最もセクシーなダンス・ミュージック上陸!全ヨーロッパ・チャートNo.1獲得。”と印刷されています。

 

 ダンス・ミュージックというと、昭和50年代後半にディスコ・サウンドが多くの人に支持されましたが、その後、昭和60年代、平成ひと桁代でもディスコ・サウンドは人気を集めていました。

 そのため「ランバダ」が日本でヒットするきっかけになったのは、ディスコからだと感じます。

 

 

  昭和60年代にはヨーロッパのヒット曲、いわゆるユーロ・ポップス、ユーロ・ビートが人気を集めました。

 

 カオマさんはフランスの音楽グループなので、「ランバダ」はユーロ・ポップスの流行の延長で日本に輸入された作品であると考えます。

 

 

 しかし「ランバダ」を聴いても、曲の雰囲気にフランスらしさは全く感じません。聴いた印象は、やはりラテン・アメリカ圏の音楽と感じます。

 

 

 日本の音楽業界は、ディスコで踊るための音楽として、ヨーロッパから音源を輸入していました。

 この時代のフランスの音楽業界では、様々な国の民族音楽、ワールド・ミュージックの作品を制作することが推進されていたようです。その背景には、異文化の移民を受け入れる世の中の雰囲気があったのだろうと考えられます。

 

 ワールド・ミュージックのヒット曲はフランスでは色々ヒットしていましたが、その中の1曲が「ランバダ」でした。ヨーロッパ人に支持を得たラテン音楽は、遠く離れた日本でも支持を集めました。

 

 

 昭和時代でも、日本にはラテン音楽を支持する土壌があったため、「ランバダ」のヒットには特に違和感は覚えません。しかし、従来のラテン音楽とは作品の質が異なるように感じます。

 

 楽譜を見て気付いたのですが、「ランバダ」は雰囲気はラテンっぽいですが、メロディラインがシンプルすぎると感じます。

 

 昭和にヒットしたラテン音楽は、拍を意図的にずらすシンコペーションを多用したメロディが登場していました。

 しかし、「ランバダ」は実際に弾いてみると、こんなに簡単なメロディだったの?と感じてしまうくらい、リズムの単純さを感じてしまいます。

 

 しかし、シンプルなメロディの繰り返しながら、「ランバダ」には何度聴いても飽きない要素を持っていると感じます。

 

 それが、あまり耳にする機会のないラテン音楽風の編曲によるものなのか、考えなくても良さが分かるシンプルさなのかはよく分かりません…。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「ランバダ」はDマイナー(ニ短調)です。繰り返しの多い作品ながら、日本の作品で見受けられる終盤に半音上がるような事もせず、フェードアウトしていきます。

 

曲情報

 発売元:EPIC/SONY RECORDS

 品番:ESDA-7009

 A面

  「ランバダ」

  原題:LAMBADA

 

 B面

  「ランバダ(Instrumental)」

 

参考資料

 「ランバダ」CDジャケット

 『オリコンチャート・ブック アーティスト編全シングル作品』オリコン

 「you大樹」オリコン

 「バンドプロデューサー5」

「ステイン・アライヴ」ビー・ジーズ(昭和53年)

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 昭和53年はディスコ・サウンドが大流行した年でした。映画『サタディ・ナイト・フィーヴァー』が公開された年で、この映画のヒットによって、数年前から注目を浴びていたディスコ・サウンドがたくさんの人たちに支持されるようになりました。

 

 ディスコ・サウンドの発祥は、ヒットチャート的には昭和50年に発売されたLP盤「バンプ・イン・ディスコティック」から始まります。昭和49年に登場した流行りのディスコ・ステップであるバンプが、日本のディスコ・サウンドの始まりと捉えています。同年にはバンプに続く人気ステップの「ハッスル」が流行したようです。

 

 その後も、ディスコ・サウンドの流行は続いていましたが、大きな流行という印象はありませんでした。映画『サタディ・ナイト・フィーヴァー』は日本ではくすぶっていたディスコ人気を一気に加速させた映画だったのだと感じます。

 

 

 「ステイン・アライヴ」は『サタディ・ナイト・フィーヴァー』の主題歌です。たしかオープニング映像でジョン・トラボルタさんの歩くシーンで、足元の映像が映る背景で流れていたと思います。

 

 

 「ステイン・アライヴ」は、劇中歌「恋のナイト・フィーヴァー」が発売される3カ月前の昭和53年3月に発売されました。「恋のナイト・フィーヴァー」とともに、8月にヒットしました。

 ちょうど夏休みの時期で、若い世代を中心に、日本中が最もディスコ・サウンドに夢中になっていた時期だったのではないかと感じます。

 

 

 ヒット曲には、聴き手をとりこにする何かを持っていると感じているのですが、何が夢中にさせるのでしょうか?

 基本的な要素は、歌詞で描いたり、歌唱で魅せたりと、とにかく作品の世界観を形にできる表現力があるかないかで決まるのだろうと考えています。

 しかし、もう一つ理由もなく惹きつけられるリズムの存在があります。

 

 私は「ステイン・アライヴ」は好きですが、どこが好きか?と言われても簡単に説明できません。

 なぜか聴いていて良い曲と感じるからですが、おそらく、この作品の魅力はビー・ジーズさんのハーモニーというより、日本語では生み出すことが難しい、リズム感のあるメロディだと感じます。

 

 50音の日本語は母音の発音がはっきりとしているため、16分音符で発音するにはハンデがあります。仮に発音できたとしても意味が伝わるように感情を込めて歌えない言語と考えています。

 英語に限らず、中国や韓国のアジアの言語も、細かなリズムに合わせて自由に発音できる言語であると感じています。

 

 海外で日本の曲がヒットできないのはこの壁があると感じていますが、日本には存在しないリズム感を体験できるのが、ディスコ・サウンドの1つの特徴です。楽譜を見ても簡単に演奏できません…。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「ステイン・アライヴ」はD♯マイナー(嬰ニ短調)です。音階は47抜き長音階の短調版である26抜き短音階です。

 

 海外の作品はかっこいいと感じる作品が多いのですが、メロディはシンプルな作品が多いです。「ステイン・アライヴ」もメロディは単純で、歌手の音域も1オクターブ以内に収まっています。

 音域が狭い歌というのは、アイドル作品で見かける事がありますが、基本的には日本の文化ではあまり見られません。

 

 その代わりに凝っているのが、楽譜のタイ記号の多さから感じられるリズムの刻み方です。聴きなれないサウンドは、何度聴いても飽きが来ません。

 

 

曲情報

 発売元:ポリドール株式会社

 品番:DWQ6049

 A面

  「ステイン・アライヴ」

  原題:STAYIN' ALIVE

  演奏時間:3分42秒

 

 B面

  「アイ・キャント・ハヴ・ユー」

  原題:IF I CAN'T HAVE YOU

  演奏時間:3分21秒

 

 

参考資料

 「ステイン・アライヴ」レコードジャケット

 『永遠のポップス2』全音楽譜出版社

 『オリコンチャート・ブック アーティスト編全シングル作品』オリコン

 『オリコンチャートブック〈LP編(昭和45年‐平成1年)〉』オリコン

 「you大樹」オリコン

 「バンドプロデューサー5」

 

「セレソ・ローサ」ペレス・プラード楽団(昭和30年)

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 『ダンスと音楽』に掲載されている昭和2、30年の洋楽ヒットチャートを眺めていると、「マンボ・なんとか」、「なんとか・マンボ」と名付けられた作品が数多く登場する時期がある事に気付きます。

 

 ラテン音楽のひとつである“マンボ”が、当時、アメリカでかなりのブームとなっていたようで、輸入されるレコードを通して、日本でも人気となったようです。

 

 昭和30年のヒット曲、「セレソ・ローサ」もマンボの作品です。原曲はフランスのシャンソンで、元々ルンバだった作品を編曲されたようです。

 

 レコードジャケットの解説を読むと、マンボというのは、キューバの音楽家であるペレス・プラードさんが考案された音楽スタイルのようです。

 レコードジャケットの解説では、「プラド自身は“マムボ”はラテン・アメリカのリズムとジャズのハーモニーが融合して誕れたものであると説明してゐます。」と表現されています。


 

集計日付 順位
昭和30年4月 11位
昭和30年5月 3位
昭和30年6月 1位
昭和30年7月 1位
昭和30年8月 1位
昭和30年9月 3位
昭和30年10月 4位
昭和30年11月 7位
昭和30年12月 圏外
昭和31年1月 16位

 ※『ダンスと音楽』SP盤の売上ランキング推移

 

 6~8月に3ヶ月間首位となっています。年明け1月に再びランクインしていますので、昭和30年を代表するヒット曲であると感じます。

 「セレソ・ローサ」は大ヒットしたことでマンボの代表曲となりました。「スコキアーン」もヒットしており、日本でマンボ・ブームが発生したのは、昭和30年だったと考えらえます。

 

 昭和27年に、ザヴィア・クガート楽団さんの「マムボ第五番」がヒットし、その影響を受けて、美空ひばりさんも「お祭りマンボ」を発売されていました。

 昭和27年にもマンボブームがあったと考えられますが、3年後の昭和30年の方が、流行の規模が大きかったと考えます。

 

 

 ペレス・プラードさんのマンボは、テンポの遅い、のんびりとした作品が多いです。金管楽器のにぎやかな演奏が印象に残りますが、スローな曲調はマンボに加えて、スビーという音楽表現を取り入れているためだそうです。

 

 スビーについては明確な定義は分かりませんが、キューバやメキシコの民族音楽のようで、「セレソ・ローサ」の作風について、“新型式スビー風のマムボ”や“マンボ・スビー”と解説に記載されています。

 

 ペレス・プラードさんの作品は、スロー・テンポで演奏され、トロンボーンの音色にはコミカルさも備わっているためか、昭和40年代後半にはドリフターズさんのコント番組で「タブー」が加藤茶さんのギャグのBGMとして用いられました。

 

 とんねるずさんの「雨の西麻布」の歌い出しにも“マンボ!”というフレーズが登場しますが、現在の日本でマンボというと、お笑いの要素を備えた音楽として広まっているように感じます。

 “マンボ”という名称や作品が備えるラテン音楽の陽気さが、コメディアンにとって題材にしやすかったのだと感じます。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「セレソ・ローサ」はE♭(変ホ長調)。マイナーな雰囲気に感じるフレーズもあります。

 

 

曲情報

 発売元:ビクター株式会社

 品番:SS-1056(EP盤)

    S-131(SP盤)

 A面

  「セレソ・ローサ」

  原題:CEREZO ROSA

  演奏時間:2分56秒

 

 B面

  「巴里でマンボを」

  原題:MAMBO DE PARIS

  演奏時間:2分55秒

 

 

参考資料

 「スコキアーン」レコードジャケット

 「セレソ・ローサ」レコードジャケット

 『ダンスと音楽』ダンスと音楽社

 

「スエーデンの城」レーモン・ル・セネシャル指揮の楽団(昭和39年)

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 昭和30年代の洋楽ヒットチャートには、映画館のスクリーンで流れた音楽が登場する事が頻繁にありました。

 昭和39年にヒットした「スエーデンの城」も、当時日本で公開されたフランス映画の主題曲です。

 

 日本で初めて売上ランキングの作成を試みた雑誌『ダンスと音楽』でも、10年前の昭和29年11月のランキングから、「日本で封切された映画の主題歌曲に★印をつけることにしてみた。」と、特別視されています。

 

 インターネットのない時代に、海外の情報をどのように入手していたのか?私にとっては未だにナゾですが、映画は、最新の海外事情の情報源として効率の良いメディアだったのは間違いなさそうです。

 

集計日付 順位
昭和39年9月 15位
昭和39年10月 6位
昭和39年11月 12位

 ※『ミュージックマンスリー』洋楽部門のヒットチャート推移

 

 

 ちょうど、東京オリンピックが開催されていた昭和39年10月にヒットした「スエーデンの城」のレコード解説には、

 

  『古くは「エデンの東」のような、いわばスタンダード曲に入るようなものから、最近では“007/危機一発”のテーマ曲「ロシアより愛をこめて」まで』

 

 と表現されていますが、解説通り、数々の映画で流れる音楽が日本で支持を得続けています。

 (・・・昭和39年の時点で、昭和31年の「エデンの東」をスタンダードと認識されている事にはやや驚きます、10年も経っていないのに・・・。)

 

 

 映画音楽は作品のテーマによって主題曲の音楽ジャンルが異なります。ヒットチャートに登場した作品のほとんどが、オーケストラが演奏されるムードのある器楽曲となっています。

 

 しかし、「スエーデンの城」のように、テンポの良いジャズ系の作品が登場する事もあります。

 

 「スエーデンの城」主題曲は、レーモン・ル・セネシャル指揮の楽団さんが演奏されるジャズ作品です。ジャズが主題曲となる映画は、フランスが多いようです。

 

 当時、この映画がヒットしたのかどうかは分かりませんが、レコードジャケットでは、原作が『悲しみよこんにちは』で知られるフランソワーズ・サガンさんである事が強調されています。

 

 

 このレコードには、一つ不思議な事があります。映画主題曲のレコードなのに、なぜか岸洋子さんの日本語カバー盤である「スエーデンの城」のジャケットも兼ねている事です。  

 別に映画もご出演されておらず、日本語カバーをしただけなのに、まるで映画に係っておられるような扱いとなっています。

 

 私が持っているレコードジャケットには、HIT-1097とBS-7044と、2つの品番が印刷されています。

 HIT-1097が映画サウンドトラック盤の品番、BS-7044が岸洋子さんの日本語カバー盤の品番です。

 

 

 当時、岸洋子さんの盤はカップリングの「夜明けのうた」がヒットしていた事もあり、もしかすると、映画主題歌のレコードジャケットを代用したのではないか?とも考えられます。

 

 “異なる品番で同じジャケットを用いる”、という手法がされているのは、この作品のほかには見聞きしたことがありません。

 

 購入する側からすれば、レコードが違ってもジャケットが同じだと、うっかり買い間違える可能性もあるのに、なぜそのような事をしたのか?

 不可解な事をされていると感じます。

 

 

  バンドプロデューサーの分析では、「スエーデンの城」はB♭マイナー(変ロ短調)。岸洋子さん盤では、歌唱重視にアレンジされているため、ジャズ感が全くありません。

 私はサウンドトラック盤のこの作品の方が好きです。

 

 

曲情報

1964年 年間31位(洋楽)

 

 

レコード

 発売元:キングレコード株式会社

 品番:HIT-1097

 A面

  「スエーデンの城」

  原題:GENERIQUE

 

 主題曲■≪サウンド・トラック盤≫

 

 「悲しみよこんにちは」フランソワズ・サガン原作

 モニカ・ビッティ/クルト・ユルゲンス

 ジャン=ルイ・トランティニャン/フランスワズ・アルディ

 ジャン=クロード・ブリアリ/シュザンヌ・フロン

 名匠 ロジェ・パディム監督

 

 総天然色

 フランスコープ

 

 東和提供 フランス・コロナ・フィルム作品

 

 録音原盤は、フランス、バークレイレコードの提供による

 Original. Recording - BARCLAY Record, France

 

 

 B面

  「恋の終末」

  原題:L'AMOUR N'EST PAS

 

 

参考資料

 「スエーデンの城」レコードジャケット

 「夜明けのうた」レコードジャケット

 『ミュージック・マンスリー』月刊ミュジック社

 『ダンスと音楽』ダンスと音楽社

 「バンドプロデューサー5」

「家へは帰れない」ザ・シャングリラス(昭和41年)

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 昭和3、40年代は、セリフが加えられた作品が多く登場したように感じます。間奏にセリフが挟まれる歌と言えば、つい演歌・歌謡曲を連想してしまいますが、洋楽でもたまに登場しました。

 

 昭和41年にヒットしたザ・シャングリラさんの「家へは帰れない」は、歌とセリフの割合が逆転し、作品のほとんどがセリフになっている、珍しい構成の作品です。

 

 

 この作品も歌詞カードに和訳が掲載されていないため、詞の詳しい内容は分かりません。

 

 あらすじは、主人公の女学生が母親に認めてもらえない相手を好きになります。「若いから分からないと思うけど、それは愛じゃない」と母は伝えますが、「これは愛なの!」と思い込んだ主人公は家出をしてしまいます。

 

 しかし母親の言う通り、恋愛は長く続きません。家出をしているときに気付いたのは、恋人との恋の想い出ではなく、母親に育てられた頃の愛情のある想い出です。「ママ!」という叫びが印象的ですが、家出をした間に母親は他界しています。

 

 愛というのがどういったものであるか分からず、瞬間的な感情で親不孝な事をしてしまった自分の愚かさを深く後悔しています。

 

 そのため、暗い印象の曲調となっていますが、同年代の同じ境遇の女の子に対して、母が言っていたように、「決して私と同じ事をしてはいけない。」と訴える作品になっています。タイトルの“家に帰れない”理由です。

 

 この作品が取り上げたテーマは、数分程度の歌唱では到底表現できない感情ですので、セリフで表現するように製作された作品だと考えます。

 

・当時の雑誌のランキング推移 

集計日付 ミュージック・マンスリー ミュージック・ライフ ダンスと音楽
昭和41年2月 15位 24位  
昭和41年3月 10位 21位 8位
昭和41年4月 5位 14位 6位
昭和41年5月 16位   18位

 

  それぞれの雑誌で順位に大きな差があるものの、4月が最も順位が高いため、この時期にヒットしたと思われます。

 

 

 順位に大きな差があると感じますが、オリコンが始まる前のシングル盤のヒットチャートは、洋楽と邦楽が別々で集計される習慣がありました。

 

 

 洋楽か?邦楽か?の定義が明確ではなく、“この時期に日本の音楽界で勢力を増したフォークやグループサウンズのポップス作品を、洋楽にするか、邦楽にするか”の議論が背景にあります。

 

 海外の音楽文化に由来するポップス作品、「バラが咲いた」や「青い瞳」、「君といつまでも」などが流行っていました。これらの日本人が作曲して日本人が歌ったポップスを、どちらのランキングに振り分けるか?が雑誌社によって異なるため、順位に差が生まれています。

 

 “若者受けする音楽が洋楽(ポップス)だ!”と判断した雑誌社では、その分洋楽側に作品数が増えるため、「家へは帰れない」のランキング順位が低くなります。

 “洋楽レーベルから発売されたレコードが洋楽だ!”と判断すると、この作品のランキングは高くなります。

 

 

 数年後に再び発売されたレコードの宣伝文句に、“ポピュラー音楽の幻の名盤、遂に登場!!メアリーの語りがキミの心に訴えかける!”と記載されていますので、当時それほどヒットしていないと考えられます。・・・幻の名盤という表現ですので。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「家へは帰れない」はBm(ロ短調)。ヒットの規模は小さいかもしれませんが、歌を通して伝えたかった事を、セリフで訴えようとした演出が秀でているため、印象に残る作品です。

 

 

曲情報

 発売元:日本ビクター株式会社

 品番:JET-1636

 A面

  「家へは帰れない」

  原題:I CAN NEVER GO HOME ANY MORE

  演奏時間:3分12秒

 

 B面

  「ブルドッグ」

  原題:BULL DOG

  演奏時間:2分22秒

 

参考資料

 「家へは帰れない」レコードジャケット

 『ミュージック・マンスリー』月刊ミュジック社

 『ミュージック・ライフ 東京で1番売れていたレコード 1958~1966』株式会社シンコー・ミュージック・エンタテイメント

 『ダンスと音楽』ダンスと音楽社

 「バンドプロデューサー5」

「ノー・ノー・ノー」ザ・ヒューマン・ベインズ(昭和43年)

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 今回は、音楽ではなくデザインに偏ってしまう内容かも知れません。昭和43年頃のレコード業界に目に見える形で登場した、大変奇妙な流行である“サイケデリック”と呼ばれるジャンルについて取り上げます。

 

 この流行は、レコードジャケットでの流行と捉えています。初めに登場したのは昭和42年のヒット曲、ジェファーソン・エアプレインさんの「あなただけを」です(下図:レコードジャケット抜粋)。

 

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 画像の“あなただけを”のように、特徴的な輪郭の中に、文字がピッタリ収まるようにデザインをする手法が、日本のレコード業界で流行した“サイケデリック”です。

 

 このデザインが、昭和43年の日本でヒットしたレコードジャケットでもたくさん登場しました(下図)。

 

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 この流行がブームとなっていた時期に、ザ・ヒューマン・ベインズさんの「ノー・ノー・ノー」がヒットしました。

 昭和43年3月に発売され、順位は低かったもののロングセラー型の売れ方をしました。

 

 

 “サイケ”と略されるこの分野の定義を調べると、当時合法だった幻覚剤LSDを服用したときに見えてしまう幻覚と言いますか、要は“薬物による陶酔した感覚を表現しよう!”と試みたジャンルであるようです。

 

 幻覚が見えるような薬物を禁止するのは当然であると思いますが、LSDは2年後の昭和45年には危険な薬物に指定されました。

 

 世の中の様々な流行を吸収できるレコード音楽ですが、音楽作品に対してこの定義をした事は大変理解しがたいです。

 

 サイケデリックは、先ほどのようなレコードジャケットのデザインの中での流行であり、音楽性には何の関連性も無いと捉えています。

 

 

 

 薬物など無くとも、音楽には聴き手に中毒性を与える性質を備えている、と考えています。“好きでもないのに、なぜか頭の中で繰り返されるメロディ”や、“何度も同じ曲を聴きたくなる”といった経験は皆さんお持ちだと思います。

 

 「ノー・ノー・ノー」のようにテンポの良い楽曲も、「あなただけを」のように歌唱力を備えた楽曲も、表現に違いはありますが、聴き手の気持ちに高揚感を与えてくれます。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「ノー・ノー・ノー」はDメジャー(ニ長調)です。演奏時間が短く、単純な繰り返しが印象的ですが、これは前年にヒットした「バラ・バラ」や「ハンキー・パンキー」のヒットの流れも汲んでいるように感じます。

 

 

曲情報

 発売元:東芝音楽工業株式会社

 品番:CR-1858

 

 A面

  「ノー・ノー・ノー」

  原題:NOBODY BUT ME

  演奏時間:2分16秒

 

 

 B面

  「スエノ」

  原題:SUENO

  演奏時間:2分12秒

 

参考資料

 「ノー・ノー・ノー」レコードジャケット

 「あなただけを」レコードジャケット

 「ケメ子の歌」レコードジャケット

 「花の首飾り」レコードジャケット

 「悲しくてやりきれない」レコードジャケット

 「サイモン・セッズ」レコードジャケット

 「愛のさざなみ」レコードジャケット

 「愛の奇跡」レコードジャケット

 『オリコンチャート・ブック アーティスト編全シングル作品』オリコン

 「バンドプロデューサー5」 

「夢のカリフォルニア」ママス&パパス(昭和55年)

 

 ママス&パパスさんの「夢のカリフォルニア」は、日本では2回ヒットした作品です。

 ヒットチャートの記録では、1度目は、作品が発表されて日本でもレコードが発売された昭和40年代初め。

 2度目にヒットしたのは、なぜか十数年後の昭和50年代半ばです。

 

▼1度目のヒット記録▼

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 日本で発売されたのは昭和41年5月(『洋楽シングルカタログ RCA編』参照)で、同月にヒットチャートにランクインしていました。

 レコード解説に記載されている日付は2月ですので、もしかしたら2月に発売されたのかも知れません。

 

昭和41年の「夢のカリフォルニア」のランキング推移

集計月 ミュージック・マンスリー ミュージック・ライフ
昭和41年5月 17位 17位
昭和41年6月 14位 22位

 

 2ヶ月間ランクインしているものの、歌謡曲系の作品を省いた洋楽・ポップス系のみのランキングで10位台だったということは、それほどヒットしていなかったように感じます。売上枚数が記載されていないヒットチャートなので、累計枚数は分かりません。

 

▼2度目のヒット記録▼

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 14年後の昭和55年には、新録音盤が7月に発売されました。“コダック・カラー・フィルムCF使用曲”と記載されていますので、CMソングでテレビで流れて商品化されたのだと思われます。9月、10月にヒットしていました。

 

 ジャンルは関係なく、売上枚数のみで順位付けされるオリコンのランキングで、約20万枚の売上が記録されています。

 

 流行した規模を推測すると、おそらく日本では昭和55年の方がヒットしていたのではないか、と考えます。

 

 

 「夢のカリフォルニア」は、1960年代半ば、海外ではベトナム戦争に対する反戦の主張がフォーク・ソングを介して、ヒットチャートに姿を現し始めた時期に発売されました。

 アーティストが訴えたい事を、聴き手によりアピールするために、ロックの要素を加味したフォーク・ロックとよばれるジャンルが誕生した頃です。

 

 レコードジャケットの解説には“いわゆるフォーク・ロック調の歌”と記載されていますが、和訳が掲載されておらず、歌詞のニュアンスに反戦の意味が込められているかは分かりません。

 

 

 海外の音楽界では、1960年代に正当に評価されてヒットした作品ですが、日本では作品の趣旨が伝えられていない状態で発売されたようです。「よく分からないけど、海外で売れてるらしいから、日本でも発売しよう!」という感じで、やって来た作品の1つです。

 情報が少なかったためか、解説では、楽曲ではなく“ママス&パパス”というグループ名の奇抜さに関して、かなりの文字数が割かれています。

 

 後年、CMソングに起用されましたが、人々の耳に訴えるメロディを備えた、おしゃれな洋楽曲、という認識で広まったような印象を受けます。

 

  バンドプロデューサーの分析では、「夢のカリフォルニア」はDm(ニ短調)です。ヒットした新録音盤では、左右が別々に聞こえるようなステレオ加工が施されています。その影響か、聴いた印象では、当初の盤に比べて、心に響かず、頼りなさを感じる音源になっています。

 

 私は歌詞の内容は分かりませんが、聴いていて歌の力を感じる作品です。歌手が伝えたい感情を聴き手に届ける事ができている作品、という表現をすれば良いのでしょうか。

 フォーク系の作品と捉えていますが、このジャンルで男女コーラスのハーモニーで歌われた作品はあまり見聞きしたことがありませんので、今聴いても新鮮なサウンドであると感じます。

 

 

曲情報

(昭和41年盤)

 発売元:日本ビクター株式会社

 品番:SS-1669

  A面

  「夢のカリフォルニア」

  原題:CALIFORNIA DREAMIN'

  演奏時間:2分38秒

 

 

 

  B面

  「いかした娘」

  原題:SOMEBODY GROOVY

  演奏時間:3分10秒

 

(昭和55年盤)

 発売元:ビクター音楽産業株式会社

 品番:VIMX-1502

  A面

  「夢のカリフォルニア」

  原題:CALIFORNIA DREAMIN'

  演奏時間:2分39秒

  B面

  「マンデー・マンデー」

  原題:MONDAY, MONDAY

  演奏時間:3分23秒

 

 

参考資料

 「夢のカリフォルニア」レコードジャケット

 『洋楽シングルカタログ RCA編』

 『ミュージック・マンスリー』月刊ミュジック社

 『ミュージック・ライフ 東京で1番売れていたレコード 1958~1966』株式会社シンコー・ミュージック・エンタテイメント

 『オリコンチャート・ブック アーティスト編全シングル作品』オリコン

 「you大樹」オリコン

 「バンドプロデューサー5」

「クレイジー・ラヴ」ポール・アンカ(昭和33年)

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 昭和33年(1958年)の洋楽ヒットチャートを眺めていると、この年の流行がうかがえるランキング推移に気づく事ができます。

 

 1つは、この年に登場したポール・アンカさんの活躍

 2つは、同じくベルト・ケンプフェルト楽団さんの活躍

 3つめは、『戦場にかける橋』主題曲である「クワイ河マーチ」の流行

 

 もっと注意深く見れば、細かな部分が明らかになりそうですが、今回は、ポール・アンカさんの活躍に注目したいと思います。

 

 

 昭和33年、「ダイアナ」のヒットから注目を浴びたポール・アンカさんは、その後に発売されたレコードが、立て続けにヒットする事になりました。

 3rdシングル「ユー・アー・マイ・ディスティニ(君は我が運命(さだめ))」と4thシングル「クレイジー・ラヴ」です。

 2ndシングルの「お嬢さんお手やわらかに」は、あまりヒットしませんでした。 

 

 当時を知らない世代にとって、ポール・アンカさんの代表曲といえば、「ダイアナ」と「君は我が運命」しか思い浮かびません。

 

 歳月が他のヒット作品の存在を忘れさせるのは、よくある事ですが、私もヒットチャートを見つけるまで、「クレイジー・ラヴ」という作品の存在を知りませんでした。

 

集計日付 順位
昭和33年6月 4位
昭和33年7月 1位
昭和33年8月 2位
昭和33年9月 4位
昭和33年10月 7位

 ※『ダンスと音楽』EP盤のランキング推移

 

 

 お聞きになられると、お気づきになられる方も多いと思いますが、「クレイジー・ラヴ」は、「ダイアナ」ではなく「君はわが運命」の二番煎じのような作風になっています。

 

 「クレイジー・ラヴ」のリズムは、「君は我が運命」と同じスロー・ロックです。マイナー調の仕上がりも、視聴した印象では似たものを感じます。

 歌い出しでフレーズを引っ張るような歌い方をされていますが、この歌い方が「クレイジー・ラヴ」の作品の個性と感じます。

 

 代表曲であるポップスの「ダイアナ」よりも、バラード調の「君はわが運命」の方が、聴き手に受けが良かった、と判断されたかのような選曲と感じます。

 

 実際に、当時の日本のチャートで1位を獲得する支持を得ていましたので、「発信するレコード会社も、聴き手もニーズが一致したのかな?」と感じます。

 

 作品内容に注目すると、つい、上記のような思考になってしまいます。しかし、昭和33年以降のポール・アンカさんの活躍を考えると、「この時点で多くの固定ファンを獲得していたから売れたのではないか?」とも推測できます。

 

 

 ご自身で曲作りをされる方だからか、「クレイジー・ラヴ」のレコードジャケットでは、ポール・アンカさんの事を“ロカビリーのニュー・スター”と紹介されています。

 

 私は、ポール・アンカさんの作品を聴いたときに、エルヴィス・プレスリーさんやジーン・ヴィンセントさんの作品のような、ロックン・ロールの魂を感じる事はありませんので、ポップス界のアーティストと捉えています。

 前年に同じような形で人気者となったパット・ブーンさんと同じ系統のポップス歌手と感じます。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「クレイジー・ラヴ」はAマイナー(イ短調)です。シンプルな短調であるため、分かりやすさを感じます。この基本の音階で構成された作品が、ポップスと感じる理由だと思います。

 コード進行については勉強中ですが、マイナー調ながら、作品に明るさも感じる作品です。

 

曲情報

 発売元:キング・レコード

 品番:PS-10

 A面

  「クレイジー・ラヴ」

  原題:CRAZY LOVE

 

 

 B面

  「ロマンスの鐘は鳴る」

  原題:LET THE BELLS KEEP RINGING

 

 

 ドン・コスタ編曲・指揮の楽団

 

 このレコードは78回転盤(P-4)と45回転盤(PS-10)の両方で販売しています。

 

参考資料

 「ダイアナ」レコードジャケット

 「君はわが運命」レコードジャケット

 「クレイジー・ラヴ」レコードジャケット

 『ダンスと音楽』ダンスと音楽社

「ふたりの天使」演奏:サン・プルー楽団、歌:ダニエル・リカーリ(昭和45年)

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 魅惑的な女性が登場する際や、官能的なシーンに流れるBGMとして多用される印象がある「ふたりの天使」は、多くの人がご存知の作品と思います。

 

 スキャットが印象的なこのレコードは、昭和45年6月に発売され、8月から9月にかけてヒットしました。

 

 

 テレビではBGMとして用いられ、おなじみとなっている作品ですが、レコードジャケットの解説を読むと、“さわやかでユニークなレコード”と表現されています。

 

 現在の日本では、製作者の意図に反した広まり方をしている印象がありますが、「ふたりの天使」は、癒しを感じるイージーリスニング系統の作品です。

 1960年代以前に流行した、室内で落ち着いて聴くような、楽団の器楽演奏の要素を含んだ作品です。

 

 レコードジャケットの解説を引用させていただくと、この作品はフランスの作品で、原題は「CONCERTO POUR UNE VOIX(ヴォーカルのためのコンチェルト)」という意味になります。フランス語です。

 まるでクラシック作品のタイトルですが、サン・プルーさんが作曲された新曲です。

 (この作品を聴いて「ふたりの天使」と和訳された方は、豊かな感性を持っておられると思います。)

 

 昭和3、40年代は、現在のようなインターネットの技術も無いのに、あらゆる国々の作品を輸入してレコードを発売されていました。

 

 当時の洋楽レーベル所属の方々がモーレツに情報収集をしてくれたおかげで、様々な洋楽ヒットが誕生しましたが、フランスの作品は、日本で支持を得た曲が多いように感じます。この作品もその中のひとつです。

 

 「ふたりの天使」のヴォーカルで、スキャットを披露するのはダニエル・リカーリさん、伴奏をしているのはサン・プルー楽団さんです。

 

 この作品を聴いた後、印象に残る部分を占めているのは、ダニエル・リカーリさんのスキャットであると思います。しかし発売当時は、ネームバリューではサン・プルー楽団さんの方が大きかったようです。

 

 レコードジャケットでは、演奏と歌を別々に記載されておりますが、演奏を前に持ってきているため、記載の序列から、演奏がメインと感じるような扱いがされています。

 

 レコード会社的には、演奏が主で、歌手はオマケといった扱いだったのでしょうが、聴き手にとっては、歌手がメインと感じる作品です。

 

 1960年代以前は、美しさを感じるメロディを楽団が演奏する作品が多数登場していました。「ふたりの天使」はその系統の作品として発売されたように思います。

 

 しかし、歌詞のないボーカルが加わった「ふたりの天使」は、従来の作品とは異なり、ボーカルが勝っています。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「ふたりの天使」はF♯マイナー(嬰ヘ短調)。楽団の演奏作品に慣れ親しんだ人たちにとっては、今までに聴いたことのない新鮮さを感じる、画期的な作品だったのではないか、と感じます。

 

曲情報

 発売元:日本コロムビア株式会社

 品番:LL-2354-AZ

 A面

  「ふたりの天使」

  原題:CONCERTO POUR UNE VOIX

  演奏時間:4分

 

 B面

  「ヴァリエーションズ」

  原題:VARIATIONS

  演奏時間:2分25秒

 

参考資料

 「ふたりの天使」レコードジャケット

 『オリコンチャート・ブック アーティスト編全シングル作品』オリコン

 「you大樹」オリコン

 「バンドプロデューサー5」

「ダイアモンド・ヘッド」ベンチャーズ(昭和40年)

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 昭和39年にヒットチャートに姿を現した、エレキギターが主体の器楽演奏であるサーフィン・サウンドは、ベンチャーズさんの活躍によって、ひとつのジャンルを形成する大規模な流行となりました。

 

 昭和40年1月に来日公演をされたベンチャーズさんですが、ヒットチャートでの活躍は「急がば廻れ」(昭和39年)から始まります。

 「急がば回れ」は昭和35年の作品です。どうも、時代を先取りしていたようで、当時の日本では支持されませんでした。

 

 日本でのヒットが無かった時期の盤では、“ベンチャーズ”ではなく、“ヴェンチャーズ”と表記されています。

 

 先駆者として数年前からキャリアを積んでいるためか、サーフィン・サウンドでの活躍ぶりは、ビートルズさんに匹敵する勢いを感じます。

 

 ミュージック・マンスリーのランキングを眺めていると、そのように感じますし、レコードジャケットには「ベンチャーズ・ファン・クラブ事務所」の印刷もされていますので、人気が高いグループだったと思います。

 

 ヒットチャートに登場した作品数は、さすがにビートルズさんに適いませんが、支持された作品の流行具合は、ビートルズさん以上の結果を残しています。

 

 ベンチャーズさんの作品で最も支持されたのは、「ダイアモンド・ヘッド」です。

 

集計日付 順位
昭和40年1月31日 8位
昭和40年2月28日 5位
昭和40年3月31日 2位
昭和40年4月30日 4位
昭和40年5月31日 9位
昭和40年6月30日 6位
昭和40年7月31日 11位
昭和40年8月31日 5位
昭和40年9月30日 8位
昭和40年10月31日 17位
昭和40年11月30日 圏外
昭和40年12月25日 圏外
昭和41年1月31日 16位

 ※『ミュージック・マンスリー』洋楽ポピュラー部門のランキング推移

 

 ヒット曲はたいてい、山を横から見たときの輪郭のように、徐々に順位を上げて、流行のピークが過ぎると、順位を下っていきます。「ダイアモンド・ヘッド」の推移は6月、8月で再び順位を上げているので、何か購買行動を引き起こす出来事があったのだと思われます。

 

 オーディションTV番組の『勝ち抜きエレキ合戦』が昭和40年6月末から放送され始めたようですので、練習のためにレコードを購入された若者が多くいたのか、TV番組を通して、さらに作品の知名度が広まったのでしょうか。

 

 大ヒットした作品は、翌年初めに再び順位を上げる事があります。紅白効果とも呼ばれる現象ですが、「ダイアモンド・ヘッド」も再度チャートインしていますので、昭和40年を代表する流行歌だったと感じます。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「ダイアモンド・ヘッド」はB♭マイナー(変ロ短調)。シンプルなメロディの繰り返しで、エレキギターの演奏曲なのですが、なぜか心に響く作品です。 

 

曲情報

 発売元:東芝音楽工業株式会社

 品番:LR-1177

 A面

  「ダイアモンド・ヘッド」

  英題:DIAMOND HEAD

  演奏時間:2分

 

 B面

  「朝日のあたる家」

  英題:THE HOUSE OF THE RISING SUN

  演奏時間:2分56秒 

 

 

参考資料

 「急がば廻れ」レコードジャケット

 「ダイアモンド・ヘッド」レコードジャケット

 『ミュージック・マンスリー』月刊ミュジック社

 「バンドプロデューサー5」

「レッド・リヴァー・ロック」ジョニーとハリケーンズ(昭和35年)

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  日本でロックン・ロールが広く知れ渡ったのは、昭和31年にエルヴィス・プレスリーさんの「ハート・ブレーク・ホテル」が登場してからです。

 

 『ダンスと音楽』のランキングには、昭和30年にビル・ヘイリーと彼のコメッツさんの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が流行した記録が残っていますが、ランキングの解説欄のニュアンスは、「映画『暴力教室』の主題曲であり、映画からヒット曲した作品である」という認識が読み取れます。

 

 当時、新しく誕生したロックンロールは、日本では和訳して歌うロカビリー歌手によって人気となっていました。

 

 "洋楽に日本語詞をつけて歌うスタイル”のこの分野では、江利チエミさんが活躍されていました。しかし、ロックンロールの登場と重なって、日本語カバー曲を歌う次世代の若手歌手が多数登場しました。

 後の昭和30年代中期のカバー・ポップスの発展へ橋渡しをしたように感じます。

 

 ロックンロール発祥のアメリカでは、この新しい音楽表現を活用して、過去の楽曲をロックンロール風にアレンジする試みをした作品が登場しました。

 

 昭和35年にヒットした「レッド・リヴァー・ロック」も、アメリカ人にとって、古くから親しまれている楽曲をアレンジした作品です。

 

『ダンスと音楽』のランキング推移

昭和35年1月 12位
昭和35年2月 13位
昭和35年3月 6位
昭和35年4月 5位
昭和35年5月 9位
昭和35年6月 12位
昭和35年7月 19位

 

 昭和35年の3、4月にかけてヒットしたようです。上位に7ヶ月もランクインする、息の長い作品ですので、当時どこかで耳にされたことがある方も多かったと思われます。

 

 

 「レッド・リヴァー・ロック」は、歌詞の無い演奏曲です。オルガンがメインですが、リーダーのジョニー・パリスさんが演奏するサックスの音色も心地よい作品です。

 

 サックスやオルガンの音色は、ロックンロールと結びつきにくいため、聴いた印象では、ロックっぽさを感じません。どちらかと言うと、サックスの演奏は、数年後にブームとなるツイストの音楽を聴いたときの印象に似ています。

 

 演奏のみの作品で、レコードジャケットに記載されている“ロックンロールの強烈さ”をほとんど感じません。

 おそらく、当時もロックンロールと感じる人は少なく、どちらかと言うと、哀愁を感じる映画主題曲と対象的に、ポップで明るいイージーリスニング作品として解釈されたかもしれません。

 

 原曲は、古くから西部に伝わるカウボーイ・ソングの「Red River Valley」です。いつの時代に流行った歌か分かりませんが、イメージでは、レコードが存在しない西部劇の時代に口頭伝承で親しまれていたメロディかと思われます。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「レッド・リヴァー・ロック」はCメジャー(ハ長調)。サックスの演奏がロックさをアピールしていますが、オルガンが奏でるシンプルで素朴なメロディが勝る、明るく楽しい作品です。

 

曲情報

 発売元:キング・レコード株式会社

 品番:HIT-119

 A面

  「レッド・リヴァー・ロック」

  英題:RED RIVER ROCK

 

 B面

  「バックアイ」

  英題:BUCKEYE

 

 (ワーウィックのマスターによる)

 Recorded by WARWICK, U.S.A

 

参考資料

 「レッド・リヴァー・ロック」レコードジャケット

 『ダンスと音楽』ダンスと音楽社

 「バンドプロデューサー5」

「霧のロンドン」ジョー・スタッフォード(昭和32年)

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 『ダンスと音楽』のヒットチャートによると、ジョー・スタッフォードさんの「霧のロンドン」は、日本では昭和32年(1957年)にヒットしました。SP盤のランキングでは、4月から6月にかけて2位を記録しています。

 

『ダンスと音楽』SP盤ランキング推移

集計月 順位
昭和32年3月 5位
昭和32年4月 2位
昭和32年5月 2位
昭和32年6月 2位
昭和32年7月 3位
昭和32年8月 5位
昭和32年9月 9位
昭和32年10月 16位

  

 この時代の洋楽のヒット曲は、曲名がレコード発売当時の表記で確定されていない事が多いです。「霧のロンドン」というタイトルで発表されたこの作品も、現在では「霧のロンドン・ブリッジ」というタイトルで浸透しているようです。

 

 原題が「ON LONDON BRIDGE」ですので、「霧のロンドン・ブリッジ」の方が内容に一致しており、良いと思います。

 

 

 商品名ともいえる曲名が、後の世で訂正・変更される事は意外に感じます。当時のレコード会社は、海外の新曲を大急ぎで商品化していたために、曲名の和訳がおろそかになっていたのだろう、とも感じます。

 

 「オン・ロンドン・ブリッジ」と、カナ表記のままにせず、なぜか“ブリッジ”を省いて“霧の”を加えて「霧のロンドン」とする、微妙なさじ加減が面白く感じます。ロンドンと言えば、橋ではなく霧の都というイメージがあったのでしょうか。

 

 聴き手にとっては、ラジオやテレビから流れてくるメロディが耳に残ったとしても、よほど好きでない限り、自分から調べて知る事はありません。「あの歌の曲名ってなんだっけ?」程度ですので、別に後々曲名が変わっても問題はありません。

 

 「霧のロンドン(霧のロンドン・ブリッジ)」は、初めて聞いた時に、「当時ヒットしたのだろうなぁ。」と感じる作品です。

 

 イントロの男声コーラスを聴いた時点で、作品が表現する世界を感じる事ができますが、それよりもリズムがタータ、タータとスイングしているからかもしれません。楽しい気持ちにさせてくれるリズムです。

 

 聴いているだけでは英語詞の意味も分かりませんので、何を歌っているのか知りませんし、歌いだしのメロディが耳に残えるのはなぜか、それを何故良いと感じるのか?を説明できません。しかし、聴く人の気持ちを惹きつける魅力を持つ作品であると感じます。

 

 バンドプロデューサーの分析では、「霧のロンドン(霧のロンドン・ブリッジ)」はA♭メジャー(変イ長調)、終盤は半音上がってAメジャーになります。音楽的な事は調性しか分析出来ていませんが、新しい事が判明すれば、内容を加筆していきます。

 

 

曲情報

  発売元:コロムビア・レコード

  品番:LL-51

 

  A面

   「霧のロンドン」

   英題:ON LONDON BRIDGE

   唄:ジョー・スタッフォード

   JO STAFFORD with PAUL WESTON & his Music From Hollywood

 

  B面

   「お気に召すまゝ」

   英題:YOU DON'T OWE ME A THING

   唄:ジョニー・レイ

 

参考資料

 「霧のロンドン」レコードジャケット

 『ダンスと音楽』ダンスと音楽社

 「バンドプロデューサー5」