ヒット曲けんきゅうしつ

なぜヒットする?は証明できないと思います。誤字はちょっとずつ修正します。

歌詞を変え支持され続けたメロディ「よさこい節」(明治3年~)

流行歌になった民謡

 「よさこい節」は有名な高知県民謡です。すでに明治時代には民謡の枠を超えて全国的に知れ渡っていたようです。

 

 「よさこい節」が最初に全国的な流行をしたのは安政の戊午(1858年)夏のようです。

 

 『近世文芸叢書 第11』(明治45年出版)に、様々な地域で生まれたであろう替歌が掲載されています(近世文芸叢書 第11 (国書刊行会刊行書) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp))。

 

 (安政の元唄)

 ♪土佐の高知の はりまや橋で 坊さん簪を 買を見た

 ♪ヨサコイ ヨサコイ

 ♪坊さん簪 買のはよけれども 按摩さん眼鏡を 買に来た

 ♪コリャ ヨサコイ ヨサコイ

 

 ・・・現代では「お坊さんの恋心を描いた作品」と解釈されていますが、安政時代では「髪を剃った人が髪飾りを買う?目の不自由な人が眼鏡を買う?」という俗っぽさが人々の興味を集めていたようです。

 

 


www.youtube.com

注)郷土民謡大社中 - トピックの動画

 

 

明治3年の替歌

 明治3年(1870年)に流行した「よさこい節」は3種類の歌詞が記録されています。それぞれの地域で歌われたようです。

 

 ①(東京)お前一人か 連衆はないか 連衆やあとから 駕籠で来る

 ②(上方)飲めやうたえや 大阪の茶屋で 下戸の建てたる 倉はない

 ③(北陸地方)今のよさこい 何処からはやる 美濃の谷汲 開帳から

 ※『流行歌百年史』(昭和26年出版)

 

 北陸地方の歌詞が事実ならばリバイバルヒットは岐阜県から始まった事になります。

 

 安政時代に有名となった民謡ですので、岐阜県から「よさこい節」が広まっても疑問はありません。

 

 様々な地域から参拝者が訪れ、華厳時で誰かが歌う「よさこい節」を耳にして東京や上方に広まったのでしょう。

 

 (1870年に谷汲山華厳時(西国第三十三満願霊場 谷汲山華厳寺 (kegonji.or.jp))で開帳が行われた記録は見つけられませんでした。書籍が明治3年に流行した根拠としているならば行われたのかも知れません。)

 

 

のちのち「書生節」に変化

 覚えやすく歌いやすい「よさこい節」。

 

 『日本のうた第1集 明治・大正』に掲載されている楽譜ではFマイナーです。

 

 「ファソラ〇ドレ〇」のヨナ抜き音階で耳に残りやすく、ほほ1オクターブ以内の音域で、高音域も少なく急に音が上下する事もないシンプルなメロディなので歌いやすさも備えています。

 

 また都々逸のような七七七五調の歌詞も明治時代の流行と合致したのでしょう。

 

 

 短調なので悲しげなメロディです。明治6、7年ごろには苦学生のつらい境遇を代弁するような「書生節」へと歌詞を変えて流行します。

 

 ♪書生書生と 軽蔑するな 末は太政官の お役人

 ♪書生書生と 軽蔑するな 明日は太政官の お役人

 

 「書生節」は明治14年ごろに再び流行します。

 

 この時期には、お役人からさらにパワーアップして

 

 ♪書生書生と 軽蔑するな 大臣参議は みな書生

 ♪書生書生と 軽蔑するな フランス・ナポレオンも 元は書生

 

 と変化しています。

 

 皇帝を例えに挙げる心理、野心が増幅している傾向が興味深いです。

 

 

レコードが無い時代の歌の流行り方

 「よさこい節」は興味深い流行り方をしています。

 

 流行が落ち着いたと思ったら【数年、数十年経ってからまた流行る】、【歌詞も変わったりする】。

 

 レコードのように音源をいつでも再生できない時代だからでしょうか。

 

 商品化されていませんので著作権が無く、正式な歌詞も無いため【好き勝手に歌われる性質】も感じます。

 

 先述の『近世文芸叢書 第11』の「よさこい節」には卑猥な歌詞も掲載されていますね。

 

 おそらく明治時代のコンプライアンスでも「この歌詞は掲載を控えるべきでしょう」と判断された安政時代のもっと卑猥なばれ唄(春歌)が存在していたのだろうと思います。

 

 この存在が見え隠れする点にも江戸時代から続く流行歌の性質を感じる事ができます。