ヒット曲けんきゅうしつ

なぜヒットする?は証明できないと思います。誤字はちょっとずつ修正します。

明治時代に誕生した「お江戸日本橋」(明治4、5年~)

「こちゃえ節」から「お江戸日本橋」へ

 「お江戸日本橋」は明治4、5年から流行し初めました。最初は「こちゃえ節」が流行していたのが、いつしか「東海道こちゃえ節」というタイトルで人気となり歌詞も現在の形に変化したようです。

 

 現代でも有名な端唄ですが、【成立した経緯が明らかになっていない事】が興味深いです。

 

 ♪お江戸日本橋 七つ立ち 初上り

 ♪行列揃えて アレワイサノサ

 ♪コチャ 高輪 夜明けて 提灯消す

 ♪コチャエ コチャエ

 

 歌詞の意味は「東京日本橋を午前4時に出発して、みんなで初めて京都に行きます。」、「歩いているうちに夜が明けてきたので、高輪の町では提灯の明かりが消されています。」となります。

 

 


www.youtube.com

注)市丸 - トピックの動画

 

 

 「お江戸日本橋」は「こちゃえ節」を意識した作詞と思います。

 

 <「こちゃえ節」の歌詞>

 ♪お前待ち待ち 蚊帳の外 蚊に食われ

 ♪七つの鐘の 鳴るまでも

 ♪コチャカマヤセヌ カマヤセヌ

 

 蚊が飛んでいるということは夏。

 夏の午前4時に日本橋で待ち合わせしていたかも知れませんね。

 

 ちなみに夏至の頃の鐘7つは午前3時くらいだったようです。(江戸時代の「時間」は今とどこが違った? ★ 時のハテナにせまる!! ★ キッズタイム ★ 時と時計を楽しくまなぼう (jcwa.or.jp)

 

 

流行っている最中に歌詞を変更せざるを得なかった?

 記録メディアが無く定まった歌詞も無いため【流行する時代によって歌詞が変わる事は当たり前】です。

 

 ただ、この作品に関しては「こちゃえ節」が流行っているのに同時期に「お江戸日本橋」も流行ったと記述されている事が気になります。

 

 「モンロー・ウォーク」「セクシー・ユー」「セーラー服と機関銃」「夢の途中」みたいな感じで、【タイトルが違う2バージョンが短期間でヒットする現象】は珍しいです。

 

 当時の資料が残っていない事が残念です。

 

 いつもの想像を始めますが、当時「こちゃえ節」の歌詞を変更せざるを得ない空気が生まれたのではないか?と思います。

 

 

記録の少ない「明治5年の銀座大火」

 調べていると「こちゃえ節」は【火事にまつわるエピソード】が気になります。

 

 「天保三壬辰年春江戸より流行はねだ節」日本の流行唄 (日本歌謡叢書 ; 第9編) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

 1.この歌が流行している天保3年頃に水野忠邦の屋敷が焼失したのを見て、

   ♪水野の屋敷が焼けたとて コチャカマヤセヌ

   という替歌が歌われたというエピソード

   流行歌三代物語 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

 2.岡山県民謡「備前太鼓歌(こちゃえ)」

   ♪備前岡山 西大寺町 大火事に

   ♪今屋が火元で五十五軒 コチャ

   ♪今屋が火元で五十五軒 コチャエ コチャエ

   という歌詞

   おかやまの伝承民謡 備前太鼓唄(こちゃえ) (city.okayama.jp)

 

 

 3.に該当するのが「こちゃえ節」が流行っていたであろう明治5年2月26日の銀座大火です。災害に学ぶ―明治から現代へ―:国立公文書館 (archives.go.jp)

 

 この災害をきっかけに東京はレンガ造りの街づくりを進める事になったようです。

 

 銀座大火も資料が少ないです。(資生堂社史 : 資生堂と銀座のあゆみ八十五年 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)に銀座大火の瓦版が掲載されています。)

 

 日本橋は焼失していないようですが、明治5年に木造最後の改架が行われています。(日本橋架橋百周年|今月の特集|「日本橋ごよみ」のご紹介|まち日本橋 (nihonbashi-tokyo.jp)

 

 

 先述のエピソードを知っている人がどれだけいたのかは分かりませんが、「縁起でもない」と敬遠する心理が働いた?かもしれないと思います。

 

 そして流行中の「こちゃえ節」のイメージを一新するために「歌の主人公は日本橋からどこに行くんだろう?東海道五十三次の歌詞でも作ろうかな」と思い付いた方がいて、「東海道こちゃえ節」が生まれ始めたのではないか?と想像します。

 

 

明治4,5年はまだ東京でなく江戸の感覚?

 ・・・なぜ明治も4年経っているのに「東京日本橋」ではなく「お江戸日本橋」だったのでしょう?

 

 令和も初めの頃は聞きなれない響きに違和感がありましたが、さすがに令和4年には耳になじんでいました。

 

 やはり元号と違い、生まれ育った町の名前を一方的に江戸から東京へと改められた事は相当受け入れがたい事だった?という想像もしています。