ヒット曲けんきゅうしつ

なぜヒットする?は証明できないと思います。誤字はちょっとずつ修正します。

流行歌手・ジャッキー吉川とブルー・コメッツさん(昭和41年~昭和44年)

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活躍時期、主なヒット曲

 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(当時の愛称はブルコメ)さんは、昭和41年~昭和44年(1966年~1969年)ごろに活躍された流行歌手グループです。所属レコード会社は日本コロムビアです。

 

 ブルー・コメッツさんは、キングレコードの鹿内タカシさんや東芝レコードの尾藤イサオさんの作品で演奏を担当されていました。

 1966年に日本コロムビア所属となり、ビクターのスパイダースさんとともにグループサウンズ(GS)という音楽ジャンルを開拓し、基礎を作り上げたグループです。

 

 

【ジャッキー吉川とブルー・コメッツさんの主なヒット曲】

流行した年 曲名 作詞 作曲 編曲 メモ
1966 青い瞳 橋本淳 井上忠夫 - 歌詞が英語
1966 青い渚 橋本淳 井上忠夫 -  
1967 何処へ 万里村ゆき子 万里村ゆき子 -  
1967 ブルー・シャトウ 橋本淳 井上忠夫 森岡賢一郎 レコード大賞
1967 マリアの泉 万里村ゆき子 井上忠夫 森岡賢一郎  
1967 真赤な太陽 吉岡治 原信夫 井上忠夫 美空ひばりさんの歌
1967 北国の二人 橋本淳 井上忠夫 -  
1968 こころの虹 橋本淳 井上忠夫 -  
1968 さよならのあとで 橋本淳 筒美京平 筒美京平  
1969 海辺の石段 なかにし礼 井上忠夫 森岡賢一郎  

 

初ヒットは英語で歌う「青い瞳」

 1966年2月に発売されたデビュー曲、『007/サンダーボール作戦』の主題曲「サンダーボール」はヒットしませんでした。

 

 翌月に発売された、英語詞の「青い瞳」が初めてのヒット曲です。その年の紅白歌合戦には「青い瞳(日本語)」で初出場されています。

 

 「青い瞳(日本語)」は4か月後の7月に発売されています。“英語盤よりも日本語盤の方がヒットした”という記述を見かけますが、それを証明する資料は見当たりません。

 

 日本語盤のジャケットには、“60万枚突破の大ヒット「青い瞳」の日本語盤!”というキャッチコピーが印刷されています。

 このキャッチコピーを“日本語盤が60万枚突破した”という意味で受け止められているのかも知れません。

 

 レコード会社の発表と考えられますので売上枚数を真に受ける事は出来ませんが、日本語盤発売時には、すでに英語盤が人気となっていたと推測されます。

 

 

代表曲は「ブルー・シャトウ」

 ジャッキー吉川とブルー・コメッツさんの代表曲は「ブルー・シャトウ」(1967年)です。曲の後半でタイトルを伸ばすように歌われるので「ブルー・シャトー」と表記されてしまう事があるように感じます。

 この作品は、1967年のレコード大賞を受賞しており、ブルコメさんの代表曲というだけでなく、グループサウンズの代表曲として語り継がれている印象を受けます。

 

 


ジャッキー吉川とブルー・コメッツ Blue Comets/ブルー・シャトウ BLUE CHATEAU (1967年)

注)YouTube に使用を許可しているライセンス所持者 Nippon Columbia Co., Ltd.(COLUMBIA の代理)、その他 5 件の楽曲著作権管理団体

 

 

 

 グループ名にも用いられている“ブルー”は、ブルコメさんのイメージカラーのようです。

 初期の曲名に「青い~」というタイトルが続きますが、英題でも“BLUE”を用いた作品もところどころに登場しています。

流行した年 曲名 英題
1966 青い瞳 BLUE EYES
1966 青い渚 MY LONELY FIRST LOVE
1967 何処へ IZUKO-E
1967 ブルー・シャトウ BLUE CHATEAU
1967 マリアの泉 BLUE FOUNTAIN
1967 真赤な太陽 MAKKANA TAIYO
1967 北国の二人 IN A LONESOME CITY
1968 こころの虹 BLUE RAINBOW
1968 さよならのあとで SAYONARA NO ATODE
1969 海辺の石段 UMIBE NO ISHIDAN

 

 「マリアの泉」「こころの虹」は英題がBLUE~となっています。

 

 色で考えると、美空ひばりさんと共演した作品名で“赤”が用いられているのも興味深いです。

 「真赤な太陽」を作詞された吉岡治(よしおかおさむ)さんは、ブルー・コメッツさんの“青”を意識して、あえて真逆の“赤”を選んだのかな?と想像してしまいます。

 

 

 「さよならのあとで」からは、英題が単にローマ字表記されるようになっています。この作品以降、楽曲にも変化が現れ人気が落ち着き始めますので、ブルコメさんの全盛期は昭和41年、42年と考えられます。

 

 

活躍された時期の流行、人気歌手(昭和41年、42年)

 昭和41年(1966年)は、日本人が製作したポピュラー作品が洋楽のヒットチャートに登場し始めた年です。

 洋楽レーベルから発売されたマイク真木さんの「バラが咲いた」スパイダースさんの「ノー・ノー・ボーイ」が、ポピュラーのランキングに登場しました。

 

 この年より前に人気を集めていた、洋楽を日本語でカバーする歌手の作品は邦楽ランキングに集計されています。

 昭和41年は、“ポピュラー=洋楽”ではなくなった年で、価値観が変化した年と考えられます。

 

 

 この2年間に活躍されている方には、西郷輝彦さん、舟木一夫さん、橋幸夫さんの御三家がおられます。他には、加山雄三さんや園まりさんがおられます。

 グループサウンズではスパイダースさん、洋楽ではビートルズさんやザ・ローリング・ストーンズさんがおられます。

 

 

 

推測されるファン層

 「ブルー・シャトウ」がヒットするまでは、若い世代で支持を集めていたと感じます。

 「ブルー・シャトウ」は、元々の歌詞に♪とんかつ、にんにくと加えられる替え歌が誕生するくらい流行したので、子供にも人気があったように思います。

 

 当時は日本で一番人気だったと思われます。その時期に発売された、同じレコード会社所属の美空ひばりさんの「真赤な太陽」では、デビュー以前のようにバックで演奏だけをされています。

 

 人気絶頂の時でも裏方に回るというのは、とても紳士的な対応に感じます。おそらくこの作品をきっかけに、年配の世代にもグループ名を覚えられるようになったのではないか?と感じます。

 

 幅広い世代の支持を集めただろう、と感じます。

 

 

楽曲について(音階、調性、作品の特徴等)

流行した年 曲名 調性 音階
1966 青い瞳 Eマイナー(ホ短調) 26抜き短音階的
1966 青い渚 C#マイナー→Dマイナー (嬰ハ短調→ニ短調) 自然的短音階的
1967 何処へ Dマイナー(ニ短調) 自然的短音階的
1967 ブルー・シャトウ Bマイナー(ロ短調) 自然的短音階的
1967 マリアの泉 Gマイナー(ト短調) 自然的短音階的
1967 真赤な太陽 Aマイナー(イ短調) 26抜き短音階的
1967 北国の二人 C#マイナー(嬰ハ短調) 自然的短音階的
1968 こころの虹 Gマイナー(ト短調) 旋律的短音階的
1968 さよならのあとで Bマイナー(ロ短調) 自然的短音階的
1969 海辺の石段 Eマイナー(ホ短調) 26抜き短音階的

 

 ジャッキー吉川とブルー・コメッツさんの主なヒット曲は、全て悲しい響きを備える短調です。

 短調ですが、曲の終止にメジャーコードを用いる作品も目立ちます。

 

 メロディに用いられる音階を調べてみましたが、所々に#や♮がついており、判断が難しい作品ばかりです。

 どのような作品でも、半音上がる音色が登場すると不思議な響きを与えてくれますが、ブルコメさんは効果的に用いている印象があります。

 

 半音上げるテクニックを自由に使ったり使わなかったりするだけでなく、最後のコーラス部分で前面に出す作品もあり、聴き手に印象に残るようなメロディを作曲されている印象を受けます。

 

 

あとがき

 ・・・音楽については素人ですので、参考程度にご覧いただければと思います(^_^;A。

 

 

参考文献

 <レコードジャケット>

 「青い瞳」

 「青い瞳(日本語)」

 「青い渚」

 「何処へ(いずこへ)」

 「ブルー・シャトウ」

 「マリアの泉」

 「真赤な太陽」

 「北国の二人」

 「こころの虹」

 「さよならのあとで」

 「海辺の石段」

 <書籍等>

 『全音歌謡曲全集16』全音楽譜出版社

 『全音歌謡曲全集17』全音楽譜出版社

 『全音歌謡曲全集18』全音楽譜出版社

 『ミュージックマンスリー』月刊ミュジック社

 『レコードマンスリー』日本レコード振興

 『ダンスと音楽』ダンスと音楽社

 『ティーン・ビート』映画と音楽社

 『歌謡曲の構造』小泉文夫

 「バンドプロデューサー5」PCソフト

 「you大樹」オリコン