流行時期(いつ流行った?)
東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)のレコード大賞には、青山和子さんの「愛と死をみつめて」が選ばれました。
その年を代表する流行歌だったと推測されます。当時の音楽雑誌のランキング推移は下記の通りです。
集計日付 | 順位 |
昭和39年8月 | 11位 |
昭和39年9月 | 1位 |
昭和39年10月 | 4位 |
昭和39年11月 | 2位 |
昭和39年12月 | 2位 |
昭和40年1月 | 6位 |
昭和40年2月 | 18位 |
※『ミュージックマンスリー』歌謡曲部門の月間ランキング推移
注)青山和子 - トピックの動画
オリンピックが開催される前月に首位を獲得されています。開催後も、11月、12月で2位となっている事から、当時、かなり人気を集めた楽曲だったと推測されます。
年末にかけてヒットしたから、レコード大賞に選ばれたのかも知れません。
小説から生まれたヒット曲
『愛と死をみつめて』は昭和39年のベストセラー書籍です。歌詞カードには、『-大和書房出版“愛と死をみつめて”(大島みち子、河野実著)より-』より記載されています。
B面の「若きいのちの日記」にも『-大和書房出版“若きいのちの日記”(大島みち子著)より-』と記載されています。
小説の人気からレコードが企画されたようです。ドラマ化もされていたようですが、青山和子さんの盤は、ドラマ主題歌ではありません。
昭和39年7月に日本コロムビアさんから発売されましたが、この年の上半期には、すでに『愛と死をみつめて』が多くの人に、広く知れ渡っていたと推測されます。
若くして死んでしまった主人公
『愛と死をみつめて』は実話を書籍化した作品です。主人公は難病を患った女の子で、その女の子を励ます恋人との手紙のやり取りが書籍にまとめられています。
この二人がやりとりした手紙からは、若くして克服しがたい病と闘う女の子と理不尽な境遇の中で頑張る姿を励ます男の子の純粋な気持ちが綴られています。
昭和30年代に流行していた、若者が歌う歌謡曲=青春歌謡には、「いつでも夢を」(昭和37年)、「高校三年生」(昭和38年)や「美しい十代」(昭和38、9年)のような、若さを謳歌する作品が数多く登場していました。
そのため、「ビートルズさんが登場して、東京オリンピックが開催されたお祭りムードの年なのに、どうして若者が主役の悲しい歌がヒットしたのだろう。」と捉えてしまいます。
しかし、青春歌謡という呼び名が付く前の時期には「はたちの詩集」(昭和36年)、「江梨子」(昭和37年)といった、恋人と死別した若者の心情を描いた作品がヒットしていました。
「北上夜曲」(昭和36年)も似た場面を描いているように感じます。
死別をテーマにした作品は過去にヒットしていたものの、レコード会社で企画されていなかっただけのようです。「愛と死をみつめて」が登場した頃は、各社が歌謡界では若い男の子をデビューさせて、青春讃歌を歌うブームを築いていた時期でした。
去る側の想いが綴られた作品
若者が恋人と死別する事をテーマにした作品は、「絶唱」(昭和41年)、「花はおそかった」(昭和42年)と登場します。
それらの作品に共通しているのは、残された男の子の悲しみの気持ちが描かれている事です。しかし、「愛と死をみつめて」は、唯一、女の子の気持ちが描かれている作品です。
残された時間が限られている事を知り、つらく当たったときも優しくしてくれた恋人、最後まで支えてくれたその人に対する感謝の気持ちと、病に勝てなかった事を謝る気持ちも歌われています。
楽曲分析
「バンドプロデューサー5」の分析では、Bマイナー(ロ短調)です。
この作品は、男女のコーラスのアレンジが印象に残ります。短調のコーラスは「山のロザリア」や「北上夜曲」のように悲しい響きになりやすいです。
「愛と死をみつめて」も4分の3拍子ですが、もしかしたら、昭和36年にヒットしたうたごえ喫茶の人気曲をヒントに作曲されているのかも知れません。
歌詞カードの歌手名の欄に青山和子さんと連名で複数の合唱団やコーラスグループの名前が記載されています。
曲情報
発売元:日本コロムビア株式会社
品番:SAS-293
A面
「愛と死をみつめて」
英題:AI TO SHI O MITSUME TE
作詞:大矢弘子
作曲:土田啓四郎
演奏時間:2分55秒
コロムビア女声合唱団
ハニー・ナイツ
クール・ラティーノス
コロムビア・ストリングス
B面
「若きいのちの日記」
英題:WAKAKI INOCHI NO NIKKI
作詞:大田範子
作曲:土田啓四郎
演奏時間:2分59秒
コロムビア合唱団
コロムビア・オーケストラ
参考資料
「愛と死をみつめて」レコードジャケット
『ミュージックマンスリー』月刊ミュジック社
「バンドプロデューサー5」