流行時期(いつ流行った?)
美樹克彦さんの「花はおそかった」は、昭和42年(1967年)にヒットしました。
『レコードマンスリー』の月間ランキングによると、4、5月に最もヒットしていたようです。
集計日付 | 順位 |
昭和42年3月 | 23位 |
昭和42年4月 | 5位 |
昭和42年5月 | 5位 |
昭和42年6月 | 9位 |
昭和42年7月 | 24位 |
※『レコードマンスリー』歌謡曲部門のランキング推移
ブームの終盤にヒットした青春歌謡
オリコンの売上集計が始まった1968年は、グループサウンズの勢いが目立ちます。一世を風靡した青春歌謡の人気が下火となっていた時期と感じます。
私は当時の世の中の雰囲気を知らないため、『1967年に「花はおそかった」がヒットした事実』をいまいち理解できませんでした…。
流行を年単位で考えると謎に感じてしまいますが、月単位で見ると少し見え始めます。
「花はおそかった」がヒットした4月は、後の若者向けの音楽の流行を変える事になる、ブルコメさんの「ブルー・シャトウ」がヒットし始めていた時期です。
そのため、青春歌謡は1967年4,5月までは、まだグループサウンズよりも人気が高かったか、もしくは拮抗していた時期だったと考えられます。
この時期を境にして、世の中の青春歌謡ブームが落ち着き、グループサウンズへと転換していったように感じます。
流行歌を支持する世代が変わった、という感じでしょうか。
青春歌謡が取り上げ続けた主題
「花はおそかった」が描く世界観は、昭和40年前後に人気となったテーマです。恋人、もしくは片想いの女の子と死別する若者が主人公で、深い悲しみが描かれています。
これから長い人生を歩むはずだった若者が、難病を患う等して亡くなってしまう。とても悲しい事です。
その場面に直面する、残された若者の心理を描く作品は青春歌謡ではたまに取り上げられます。希望を失った悲しみや、もし生きていたらと思う、やりきれない気持ちに焦点をあてた作品として描かれます。
登場人物が若者なので、やはり青春歌謡の作品が目立ちます。橋幸夫さんの「江梨子」(1962年)や西郷輝彦さんの「涙をありがとう」(1965年)、舟木一夫さんの「絶唱」(1966年)がヒットしましたが、このテーマで最大のヒットとなったのは、青山和子の「愛と死をみつめて」(昭和39年)と思います。
「花はおそかった」が、すでに様々な作品で取り上げられたテーマを描きながらもヒットしたのは、残された主人公の“悲しさ”よりも、“くやしさ”が前面に描かれているからだと感じます。それまでの作品が描かなかった心情です。
「花はおそかった」では、恋心を抱いていた少女の命を奪う運命の理不尽さに対する、行き場のない怒りの感情が描かれています。歌唱よりも、最初と最後のセリフで表現されていると感じます。
最期に立ち会えなかったことを詫びていますが、何度も何度も繰り返している事が印象的に残ります。
主人公は、2人の想い出だった花を見せて、少しでも元気を出してもらおう!と考えていた事が聴き手にも伝わります。
感情を前面に出した歌
美樹克彦さんは「俺の涙は俺がふく」(1965年)でも、失恋したときのくやしい気持ちを歌われています。フラれた事にクヨクヨして悲しいというのではなく、くやしいと感じる気持ちが前面に描かれています。
この時代のレコード業界では“感情は強調しない事”が、暗黙のルールとして存在していたように感じます。
丸山明宏(シャンソン歌手)や、植木等(コミックバンドのボーカル)、石川進(テレビ漫画の主題歌を歌う歌手)が、あえて喜怒哀楽を強調した歌唱で表現されていましたが、どのジャンルも例外と考えます。
昭和40年代に入ってから、『若者が自分たちで音楽を作って歌う』という価値観が生まれ始めました。その影響か、従来の“感情を大げさに表現するような歌唱をしてはいけない”、という不文律に対する意識が変化したように感じます。
「花はおそかった」はその価値観の変化があった事を意識して、あえて感情を前面に出す作風で製作されたのではないか?と考えます。
バンドプロデューサーの分析では、「花はおそかった」はCマイナー(ハ短調)です。
曲情報
1967年 年間17位(歌謡曲部門)
レコード
発売元:日本クラウン株式会社
品番:CW-619
A面
「花はおそかった」
英題:HANA WA OSOKATTA
演奏時間:3分26秒
作詞:星野 哲郎
作曲:米山 正夫
編曲:重松 岩雄
B面
「恋の挑戦状」
英題:KOI NO CHOSENJO
演奏時間:2分57秒
作詞:中山 大三郎
作曲:米山 正夫
編曲:重松 岩雄
参考文献
「花はおそかった」レコードジャケット
『レコードマンスリー』日本レコード振興
「バンドプロデューサー5」