流行時期(いつ流行った?)
ジュディ・オングさんは、現在では「魅せられて」で昭和54年のレコード大賞を受賞された方として有名です。この作品が大ヒットしたため、とても多くの方が、受賞曲を歌う際の衣装とともに、何年経っても記憶に残っておられると思います。
もう1つ、「たそがれの赤い月」という初ヒット曲があります。
オリコンの始まる前年で詳細な記録が無く、ヒットの規模も「魅せられて」には適いませんが、昭和42年にヒットしました。
『レコードマンスリー』のランキングによると、7月に発売されたレコードは、8、9月にヒットしたようです。
集計日付 | 順位 |
昭和42年8月 | 11位 |
昭和42年9月 | 11位 |
昭和42年10月 | 12位 |
昭和42年11月 | 18位 |
※『レコードマンスリー』歌謡曲部門のランキング推移
最高順位が11位と、ヒットの規模は小さいですが、4ヶ月間も順位をキープし続けている事がこの曲の特徴です。
細く長く支持され続けた、ロングヒット型の作品だったのだろうと考えられます。
こういったランキング推移をする作品は、聴き手にとっては、「誰の曲か知らないけど、どこかで聴いたことがあるような気がする。」という形で流行したのだろうと推測されます。
歌手の個性と作曲家のメロディ
私がこの作品を聴いて感じるのは、“市川昭介さんが作曲されたメロディだなぁ”という点です。
市川昭介さんは様々な個性を持つ作品を作曲されていますが、「たそがれの赤い月」は、その中でもアイドル的な若い女性歌手の作品を手掛けられた時のメロディであると感じます。
島倉千代子さんの「恋しているんだもん」を聴いた時と似たような印象を受けます。
作曲家は、メロディで歌手のイメージを形作る事が出来ると考えていますが、市川昭介さんが歌手の個性を最大に引き出せた方は都はるみさんです。
「アンコ椿は恋の花」や「好きになった人」、隔年でヒットした「大阪しぐれ」といった作品は、誰が聴いても都はるみさんの作品であると感じます。
対照的に「たそがれの赤い月」は、それほど歌手の個性が感じられない事が特徴であると感じます。そのため、聴いた後に印象に残るのは、作曲家のメロディで、歌手よりも作曲家の作品性に個性が感じられてしまうのでは無いか、と考えます。
なぜ歌手よりもメロディが印象に残るのか
誰が歌っても同じと感じる作品に共通するのは、音域の狭さであると感じます。
「たそがれの赤い月」は、1オクターブ+1の、シ~ド#の音域でメロディが作られています。
作品の音域は、今後データを作ろうと考えていますが、おそらく、音域が1オクターブ前後の曲は、一般の方でも発声できる範囲内と考えられます。
高音域で1オクターブ前後の作品では、プロでなければ歌いこなす事は難しいでしょうが、音の高低差が狭いと歌唱で表現できる幅が狭くなるため、個性が活きにくくなると感じます。
海外出身の歌謡曲歌手
「たそがれの赤い月」のレコードジャケットには、ジュディ・オングさんの来歴や自己紹介が記載されておりませんが、お名前から海外の方と理解できます。
海外の方が、日本人が聴いても違和感を覚えない発声が出来る事はすごい事だと感じます。日本コロムビアさんも、このギャップを生かして、海外の方が歌う歌謡曲として企画されたのかも知れません。
しかし、昭和3,40年代は、海外の歌手が日本語で吹き込む事が珍しい事ではありませんでした。
本国でリアルタイムで人気を得ていたコニー・フランシスさんが、新曲を日本語で歌って吹き込んだ盤が、英語盤よりもヒットした事もあり、外国の方が日本語で歌う事が画期的な企画とは言えない時代でした。
リトル・ペギー・マーチさんが久保浩さんの青春歌謡「霧の中の少女」を、日本語と英語を混ぜて歌われる企画もありました。
そのため、日本の姓名ではないジュディ・オングさんの名前に新鮮さはなく、普通に歌手として受け入れられていたように感じます。
バンドプロデューサーの分析では、「たそがれの赤い月」はB♭マイナー(変ロ短調)です。
曲情報
1967年 年間30位(歌謡曲部門)
レコード
発売元:日本コロムビア株式会社
品番:SAS-919
A面
「たそがれの赤い月」
作詞:白鳥 朝詠
作曲:市川 昭介
編曲:河村 利夫
英題:TASOGARENO AKAITSUKI
演奏時間:3分53秒
B面
「明日またねと言っちゃった」
作詞:白鳥 朝詠
作曲:市川 昭介
編曲:河村 利夫
英題:ASHITA MATANETO ICCHATTA
演奏時間:2分44秒
制作担当:東元 晃
参考資料
「たそがれの赤い月」レコードジャケット
『レコードマンスリー』日本レコード振興
「バンドプロデューサー」