流行時期(いつ流行った?)
海援隊さんの「母に捧げるバラード」は、昭和49年(1974年)にヒットしました。
1973年12月に発売されたレコードは、翌年2月、3月に最高順位となっています。
<『レコードマンスリー』歌謡曲・月間ランキング推移>
年月 | 順位 |
昭和49年01月 | 10位 |
昭和49年02月 | 3位 |
昭和49年03月 | 3位 |
昭和49年04月 | 4位 |
昭和49年05月 | 10位 |
注)海援隊 - トピックの動画
笑いも泣きもできる母親の愛情
母親は特別な存在です。自分が年を重ねるにつれて、産み育ててくれた事への感謝の気持ちが大きくなります。
その気持ちで「自分の母に対する思いを曲にしよう!」となったとき、「母に捧げるバラード」のような歌詞を書く事は出来ません・・・。
心の中に生き続ける母親の姿を必要以上にリアルな場面を描く事で、ユーモアが生まれます。
流行歌ではめったに耳にしない博多弁で語られる母親のセリフは感情が豊かです。
小言・説教ですが、内容は違っても聴き手は"子供の頃に叱られた記憶"に重ねて自分の母親の話しているかのように置き換える事ができます。
おかあさんの口調を物真似されている事が、聴き手との距離感をさらに縮めていると感じます。
「ご近所の一般家庭で交わされているであろう日常会話」が吹き込まれているかのような、親しみやすい作品になっています。
母親の物真似は、聴き手の気分次第で笑いや共感を呼びます。
多くの人が耳にする事になるであろうレコードに、身内だけで交わす会話を切り取った歌詞を採用した事は興味深いです。
おそらく、メロディに乗るような一般的な歌詞で表現すると、「聴き手に伝えたい母親の愛情は描けない」と考えられたのだと思います。
若い世代の発想でなければ描けない歌詞と感じます(^^)/♪
若者も描く母親の姿
誰よりも深い愛情を与えてくれる母を題材にした作品は、戦前から存在します。
『瞼の母』から着想を得た「忠太郎月夜」(1959)や「番場の忠太郎」(2004)がありますが、最も分かりやすいのは、戦争が始まり我が子が出兵する緊急事態となった時代です。
出兵した息子を想う母を描く「軍国の母」(1937年発売)や「九段の母」(1939年)、「雨の九段坂」(1961)、「岸壁の母」(1976年)が思い浮かびます。
「遠くはなれて子守唄」(1972)、「花街の母」(1979)も思い浮かびますが、共通するテーマは『愛情を注ぎたい我が子がそばにいない母親の心境』です。
1960年代後半のフォークやグループサウンズのブームから、若者が曲を作る時代が始まります。
若者が母親を主題にした作詞をしたのはザ・テンプターズさんの「おかあさん」(1968)が先駆けと思われます。
洋楽で「ママに捧げる詩」(1971)や「マミー・ブルー」(1972)がヒットしていますが、これらの作品も母親に対する気持ちを肌で感じて支持を集めたのでしょうか?
子供から母親に伝えたい想いは『感謝や後悔』です。
「ありがとう」や「ごめんなさい」というフレーズは登場しませんが、「母に捧げるバラード」を聴いていると伝えたい想いは同じであると感じます。
歌詞が変わる曲
歌詞カードには、下図のような注意書きが記載されています。
歌詞が変更される事がある・・・なんという自由度の高さ(^^;A。たしかにライブ音源のCDでは歌詞が異なっていたように思います。
レコード発売された作品で、"歌詞が変化する可能性がある"と宣言している点は冷静に考えるとスゴイ事です。他には思いつきません。
今で言うインディーズのレーベルでしょうか、1970年代前半のフォークブームを支えたエレック・レコードさんの寛容さも感じます。
曲情報
発売元:ELEC RECORDS(エレック・レコード)
品番:EB-1016
A面
「母に捧げるバラード」
作詞:武田鉄矢
作曲:海援隊
編曲:三保敬太郎
演奏時間:3分58秒
この詞は場所.天候.ステージによって大きく変更することがあります.注,
(セリフ部分には「C.Am.Dm.Gのまわりコードです」という記載があります。)
B面
「さすらいの譜(うた)」
作詞:武田鉄矢
作曲:中牟田俊男
演奏時間:4分9秒
参考資料
「母に捧げるバラード」レコードジャケット
『レコード・マンスリー』日本レコード振興株式会社
『オリコンチャート・ブック アーティスト編全シングル作品』オリコン