ヒット曲けんきゅうしつ

なぜヒットする?は証明できないと思います。戦前戦中をけんきゅうちゅう。

「陽気節」(明治5年頃、明治38年・39年[再流行])

"世の中陽気に行きましょう"

 明治5年も前年に行われた断髪令廃藩置県につづいて、世の中の変化を目の当たりにする時代だったと思われます。

 

 この年に横浜-品川間で鉄道開通新紙幣の発行太陰暦の廃止が行われました。

 

 「明治6年から太陽暦に合わせます」という事で明治5年は12月2日で終了し、翌日が1月1日に。

 

 強引さを感じる近代化でカオスな日々が続いていたと思います。

 

 「これでは日本の良さが失われる!」という否定的な心境もあったかも知れませんが、流行歌では変化を面白がる"新しいもの好き"の前向きさが勝っていたかも知れないと推測できそうです。

 

 ♪たんと売れても亦売れぬ日も、おなじきげんの風車、あきなひ大事にしやしやんせ、コノおもしろやア。「世の中おもしろ節」

 

 ♪思案なかばに空飛ぶ鳥は、つれてのけとの辻占か、ヤツトコドツコイヤツトコドツコイヤツトコドツコイ世の中陽気にしやしやんせ、このおもしろや。「どっこい節」

 

 ♪おまやすまんのんし、おすまんのんし、前の小川のにごり水、サクテナントスリヤ陽気な気ぢやもの「陽気節」

 

 囃子言葉の”おもしろや”、"陽気"が当時の流行のキーワードに感じます。

 

 3曲のうち、「陽気節」は対馬民謡として現在も残っています。

 

 


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注)aki tentenの動画

 

 

対馬民謡に残る"世の中陽気で行きましょう"

 対馬民謡には「陽気節」のほかに「雨の降る夜節」もあります。こちらも囃子に"世の中陽気で"というフレーズが存在します。

 

 ♪雨の 降る夜は 恋しさまさる せめて待つ夜は 来たがよい

 ♪私に ばっかり 気をもませ 長々し夜を 独り寝の

 (囃子)

 ♪してまた 世の中陽気で行かしゃんせ

 ♪タンボサケサケ ボタモチャタナタナ

 「雨の降る夜節」(『日本民謡大観 九州篇(北部)7』収録)

 

 前半の思いつめた心境から、急に気の抜けたようなゆるーい囃子言葉になります。

 

 

 対馬は元寇の際に最初に攻められ、幕末も日本海側の海路を手に入れたかったであろうロシア帝国から狙われていたようです。


 他国から狙われやすく、秀吉の朝鮮出兵のように攻めるときも戦争の最前線。

 

 有事に備えて日常的に緊張が高まりやすい印象を持っていますが、「陽気節」や「雨の降る夜節」の民謡が生まれるような、どこの街とも変わらない雰囲気と想像します。

 

 

都会的な旋律の「陽気節」

 対馬は地理的に韓国文化も取り入れてそうなイメージですが、「陽気節」も「雨の降る夜節」も日本の音楽と感じます。

 

 特に「陽気節」は、農作業や漁業で生まれる仕事歌のような民謡というより都会の流行歌のような旋律です。

 

 聞いた印象は都節音階「よさこい節」に雰囲気が近いと感じます。

 

 もし『民俗芸術 1(3)』に掲載されている「土佐陽気節」と同じ旋律とすると「陽気節」もドミファソラの都節音階になります。

 

 土佐と対馬という離れた土地で「陽気節」が存在する事も興味深いです。

 

 どちらが先か?

 防人の役割で勤めに行った人たちが広めたのか?

 クジラ漁で対馬と土佐はつながりがあったから?という説も見つけました。

 

 色々想像できて面白いです。

 

 

 明治38年、39年に歌詞を変えて再び流行し、そのころには「ハッハ浮いた」という囃子言葉が追加されています。

 

 明治38年9月5日の日露戦争終結後から流行りだしたのか、まだ戦争中の頃に流行りだしたのか。

 

 日清戦争の頃には歌われず、不思議なタイミングで再流行し始めていると感じます。

 

 

参考文献

 『民俗芸術 1(3)』民俗芸術の会(1928年)

 『全長崎県歌謡集』円田陽一 編 交蘭社(1931年)

 『対馬といふところ』松尾鉄次 著 対馬日日新聞社(1939年)

 『郷土民謡舞踊辞典』小寺融吉 著 富山房(1941年)

 『九州風土記』木村毅 等編 金文堂(1947年)

 『対馬』湯浅克衛 著 出版東京(1952年)

 『民謡歴史散歩 [第4] (九州・沖縄篇)』池田弥三郎, 宮尾しげを 編 河出書房新社(1962年)

 『日本民謡全集 : 320曲の楽譜と解説 (角川文庫)』服部竜太郎 編 角川書店(1965年)