流行時期(いつ流行った?)
植木等さんの「スーダラ節」は、昭和36年(1961年)から翌年にかけてヒットしています。
年月 | 順位 |
昭和36年09月 | 7位 |
昭和36年10月 | 2位 |
昭和36年11月 | 8位 |
昭和36年12月 | 5位 |
昭和37年01月 | 4位 |
昭和37年02月 | 6位 |
昭和37年03月 | 9位 |
※『ミュージック・マンスリー』今月のベストセラーズのランキング推移
デビュー曲ながら、初登場でベストテン入りした事は興味深いです。また、歌手の名義がグループ名ではなく、ボーカルの植木等さんになっている事も興味深いです。
ハナ肇とクレイジー・キャッツさんは、レコードデビューする前から『シャボン玉ホリデー』等のテレビ番組に出演されており、すでに知名度が高かったからではないか?と推測されます。
注)植木等・ハナ肇とクレイジー・キャッツ Official Channel 公式アーティストチャンネルの動画
レコードでは、なぜか「スーダラ節」の作曲者名が記載されていません。"荻原哲昌 編曲"と記載されています。
後年、東芝EMIさんから再発売されたレコードでは"萩原哲晶 作曲・編曲"と訂正されていますので、単純なミスと思われます。
かなり急いで製作したのだろうと思われます…(^^:A。レコードジャケットの写真も、メンバー7人が揃わず、6人になっています。
2回流行った?不思議な売上順位
「スーダラ節」は、不思議なランキング推移を記録しているように感じます。
1961年10月に最高順位を記録し、翌月には順位が下がります。しかし12月、1月の年末年始に再び順位が上がり始めます。
予想外の売れ行きで生産が間に合わずに一時的に順位を落としたのか、もしくは新たな層から支持を獲得したのかは分かりません。
発売後しばらくしてからの年末年始が、後世に語り継がれるブームの始まりとなっていたようにも感じます。「ドント節」(1962)も人気を集めています。
『ミュージックマンスリー』のランキングは上位20位で掲載されています。
大抵のヒット曲は、流行のピークを越えると11位以下にランクを落としながら姿を消していく印象があります。
「スーダラ節」のように、ベストテンにランクインしながら突然圏外に至る事は珍しく、三波春夫さんの「東京五輪音頭」(1964)と似たようなランキング推移となっています。
コミカルな作品が人気だった時期
サラリーマンが主人公で、その生き様を面白おかしく描いた作品はあまりみかけません。
そのためハナ肇とクレイジー・キャッツさんの作品は、今となっては必要以上に付加価値が備わっていると感じます。
1960年代初頭は、若い世代の作品でコミカルさを持つ作品がヒットしています。
「僕は泣いちっち」(1959)の守屋浩さん、「ダンチョネ節」(1960)小林旭さんが先駆けと思います。「悲しき六十才」(1960)でデビューされた坂本九さんもこの路線で人気を獲得されています。
「スタコイ東京」(1960)や「じんじろげ」(1961)もユーモアのある作品です。
私は当時の世の中の雰囲気を知りませんが、「スーダラ節」はもともと存在していたこの流れに乗る形で登場したように感じています。
コミカルな作品の流行は「スーダラ節」がヒットする25年前、1936、37年にも存在していたようです。「山寺の和尚さん」や「たばこやの娘」、「のばせばのびる」等の作品が1937年に発売されています。
また、「あゝそれなのに」(1936)、「若しも月給が上ったら」(1937)のように、サラリーマンが登場人物であると連想できる作品も発売されています。
戦争が始まった事で突然終了してしまいますが、ヒット曲にユーモアが求められる時期というのは定期的にやって来るのかな?と考えています。
曲情報
1961年 年間16位(邦楽)
1962年 年間20位(邦楽)
レコード
発売元:東芝音楽工業株式会社
品番:JP-1300
A面
「スーダラ節」
作詩:青島幸男
編曲:荻原哲昌
演奏時間:2分16秒
宮間利之とニュー・ハード・オーケストラ(WPT)
B面
「こりゃシャクだった」
作詩:青島幸男
作曲・編曲:荻原哲昌
演奏時間:3分29秒
ハナ肇とクレイジー・キャッツ
宮間利之とニュー・ハード・オーケストラ(WPT)
参考資料
「スーダラ節」レコードジャケット
『ミュージック・マンスリー』月刊ミュジック社
『新版日本流行歌史(上)』社会思想社