2度発売されたレコード
「トンコ節」はレコードが2度発売された珍しいヒット曲です。再発売されたとき歌詞もリメイクされています。
レコード会社が企画したヒット予想が外れて「あぁ、名もなく消えてしまう・・・」と思いきや、時間差で人気に火が付いた事で後世に名を残した作品と思います。
なぜそのような事になったのでしょうか?
<「トンコ節」に関する出来事の年表>
昭和24年01月 | レコード(品番A500)を発売 |
昭和25年 | 朝鮮戦争勃発で特需景気 |
昭和26年04月 | レコード(品番A1079)をリメイクして発売 |
昭和??年 |
ながいよう「日立ブルース」発売 (LP『関西フォークの歴史 1966-1974 (第2集) 』に収録) |
注)久保幸江/ポルチーニョ楽団 - トピックの動画
朝鮮戦争で内需が拡大する前と後で、この作品の支持のされ方が変化したようです。
(国鉄ではなく省線と表現されている歌詞に、はるかかなたの現代社会を感じます。JR以前は国鉄と思い込んでいました。省線という呼称が存在していたのですね・・・)
流行る事が批判された?
「トンコ節」は、今聴いても「俗っぽさ」が際立つ作品と思います。
第一印象で拒絶される方もいれば、「面白い曲じゃない?」と思う方もいると思います。
この心の働きは、現代でもTikTokで支持するかどうかの心理と変わりないと思います。
しかし流行歌に関する書籍では、当時の「トンコ節」の流行を否定する記述が目立つ事が興味深いです。
「特需ブームで新興成金層がふえてくると、宴会などでさわぐためのお座敷ソングが流行した」と前置きして、「二十五年の特需ブームの頃、作詞者の西条八十がエロ味たっぷりの文句に書き直した」(『歌の昭和史』加太こうじ)
たいがいのことに驚かない大宅壮一氏も、さすがに「声のストリップ、それも全ストに近いものだ」と断じた。じつのところ、さいしょ、西条、古賀両氏も、筆名にしようか、と思案したそうだ。(『日本の流行歌』上山敬三)
おそらく、多くの人たちに支持されている流行歌に対して「品が無さすぎる」とご指摘される心境と思います。
エロ、ストリップ・・・この指摘、戦前にヒットした「忘れちゃいやョ」が内務省から指導される流れを感じます。
戦後には検閲が存在しないため流行歌に対して行政指導した事例はありません。
(代わりに民間企業の価値観でテレビ・ラジオの放送を自粛する流れが生まれています)
行政ではなく民間で「こういう曲が流行るのは良くない」という価値観が生まれている事は大変興味深いです。
上にも下にもゆく日立のエレベーター
「トンコ節」で検索すると、サジェスト候補に「トンコ節 替え歌」が出てくるので調べると面白いエピソードがヒットしました。
特需景気の日立製作所でも「トンコ節」は愛唱され、替え歌が生まれていたようです。
「日立トンコ節」で検索いただくと、春歌のように性行為を連想させながらも結局は自社製品をアピールする、というオチになる秀逸な替え歌が検索結果に登場します。
替え歌は再発盤の「上へゆく下へゆく」が、自社製品のエレベーターを連想させたからと思います。
当時、日立製作所に勤めておられた社員さんがひらめいたのだと思います。
特需景気の頃に宴会の余興で歌われたであろう「日立トンコ節」は、時を経て生まれ変わります。
関西でフォークソングがブームになった1970年代前後に永井ようさんが「日立ブルース」を発表されています。
曲調はまったく異なりますが、歌詞は「日立トンコ節」を踏襲されています。
現代では語られる事がはばかられる内容ですが、もしかすると「当時、多くの人がこの替え歌の存在を知る機会があるくらい広まっていたのでは?」と想像してしまいます。
記録には残らない、戦後6年当時の日本の勢いを感じます。