軍歌ではなく【俗謡軍歌】
「雪の進軍」(明治28年発表)は日清戦争の頃に製作されました。
明治28年(1895年)に出版された『大東軍歌 : 雪月花 花』(大東軍歌 : 雪月花 花 - 国立国会図書館デジタルコレクション)に掲載されています。
そして【俗謡軍歌】という聞きなれないジャンルがタイトル下に印刷されています(下図)。
※『大東軍歌 : 雪月花 花』(大東軍歌 : 雪月花 花 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
【俗謡】は文字通り、民間で口ずさまれる流行歌です。
【軍歌】と対極の存在と思いますが、相容れない2つが融合した【俗謡軍歌】という表記で世に出ていた事に驚きました。
おそらく【兵隊のあいだで実際に愛唱された歌】という意味と解釈しています。
「軍歌」でイメージしてしまう"自己犠牲の勇ましさ"は感じられず、「♪嫌じゃありませんか軍隊は」のような"一人の人間として告白する嘆き"を感じます。
注)あんこうチーム - トピックの動画
公式動画が見当たりませんでしたので『ガールズ & パンツァー』のトピック動画を掲載しています。
平成に製作された作品で明治の軍歌が題材にされていたとは・・・知りませんでした汗。
当時の歌詞は最後の一文が異なる
昭和に製作された戦時歌謡の影響で、つい【軍歌=美談・大義名分を描くことで戦争を正当化する作品】を連想してしまいます。
しかし「雪の進軍」は【ひとりの兵隊が感じる人間味のある心理描写】が細かく描かれている事が特徴です。
現在では最後は「どうせ生きては帰らぬつもり」で終わりますが、明治に掲載された歌詞は「どうせ生かして帰さぬつもり」となっています。
明治時代の方がシリアスな感じです。
この部分がいつの時代に改変されたのかは不明です。
<『大東軍歌 : 雪月花 花』に掲載されている歌詞>
雪の進軍氷を踏んで
どれが川やら道さえ知れず
馬は倒る捨ても置ず
茲は何所ぞ皆敵の国
儘よ大胆一服やれば
頼少なや煙草が二本
焼ぬ乾魚に半煮飯と
なまじ命の有其中は
怺切ない寒さの焚火
煙筈だよ生木が燻る
渋い顔して功名噺
すいと言のは梅干一
着のみ着の儘気楽な衾
背嚢枕に外套被りゃ
背なの暖で雪解懸る
夜具の黍幹シッポリ濡て
結兼たる露営の夢を
月は冷く顔覗き込む
命捧て出て来た身故
死る覚悟で吶喊すれど
武運拙く討死せねば
義理に搦た恤兵真綿
鼠栗鼠栗と首締懸る
どうせ生して還さぬ積
※現代では太字部分が「どうせ生きては帰らぬつもり」となっています。
なぜ唱歌のように明るい曲調?
「雪の進軍」では、敵地の過酷な冬の自然環境にさらされ、装備も充実しないまま侵攻する時の心細い気持ちがリアルに描かれています。
歌詞だけ読むと【不安しかない悲壮な極限状態】と感じますが【曲調が明るい】ため、聴いてもそれほど「生々しい悲惨さ」を感じる心理が生まれません。
明るい曲でどちらかというと「そんな過酷な中で可哀そう!」という共感の心理が生まれやすい気がします。
現代でも「雪の進軍」に「職場・学校といった組織に所属する自分が抱く不自由さの心理」を重ねる事は容易で、明治時代もこれに似た心の働きで人気となったのではないか?と推測します。
ヒット曲でよくある【歌詞で描かれる状況を自分の境遇に置き換える心理】が働きやすい作品と思います。
【曲の明るさ】は明治政府が学校教育に取り入れた唱歌でみられる西洋音階の長音階メロディです。
作詞作曲された永井健子さんが「こんなに過酷な環境下で暗い歌を歌っても仕方ない!」という想いを込めて、あえて明るい歌を作曲されたのだろうと感じます。
実際に侵攻していた軍隊は、想像を絶する過酷な状況だったと思います。
俗謡軍歌は兵隊ソング?
明治時代でも「宮さん宮さん」や「抜刀隊の歌」、「敵は幾万」などなど、軍歌は【士気を高める目的】で作られた作品がほとんどです。
なぜ明治の人は「こんな状況、もうやってられませんよ!」みたいな「雪の進軍」をわざわざ書籍に残したのでしょうか?
『大東軍歌 : 雪月花 花』には「軍歌とは言えないですが・・・」のニュアンスで、過酷な状況を耐え抜く際に歌われた「雪の進軍」のエピソードも紹介されています。
我第二軍が清国山東省に転戦せしは、明治廿八年一月の末にて、極めて寒気の烈しき時なり。彼の威海衛は二月の初旬、難なく我手に帰せしが。劉公島には、未だ敵の残艦、偶砲撃を試みつつある故、進む能はず。空しく虎山と云える寒村に、十四日間、埋れて、駐営せり。此際戦地の事とて、出放題に、例の自然生的に詠じたる物、即ち本歌にて、唯当時の実景を写生せしのみ。(『大東軍歌 : 雪月花 花』)
明治の俗謡軍歌は、「ズンドコ節」のように昭和に戦地で愛唱された兵隊ソングと同じ役割を果たしていたようです。
参考資料
『大東軍歌 : 雪月花 花』(大東軍歌 : 雪月花 花 - 国立国会図書館デジタルコレクション)(1895年)