流行時期(いつ流行った?)
三田明(みた あきら)さんの「カリブの花」は、昭和42年(1967年)にヒットしました。『レコードマンスリー』の月間ランキングによると、4月に最もヒットしたようです。
集計日付 | 順位 |
昭和42年2月 | 21位 |
昭和42年3月 | 16位 |
昭和42年4月 | 13位 |
※歌謡曲部門のランキング推移
売上順位が低いため、ヒットの規模は小さかったように感じます。三田明さんの作品では、同年の歌謡曲調の「夕子の涙」の方がヒットしているような印象を受けます。
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御三家の次点の人気を誇る歌手
三田明さんは、西郷輝彦さんより先にヒット曲を手にした青春歌謡の歌い手です。しかし、後年に語られる御三家には該当しませんでした。
四天王という呼称で三田明さんが含まれる、と何かの書籍で読んだことがあります。
デビュー曲「美しい十代」(昭和38、39年)と「若い港」(昭和39年)の後、ヒットに恵まれなかった事が理由と感じます。
(「みんな名もなく貧しいけれど」(昭和39年)は、『ミュージックマンスリー』誌のランキングには登場しませんでした…。)
しかし、2年後の昭和41年には「アイビー東京」や「恋のアメリアッチ」が支持され、再びヒットチャートに姿を現す事になります。
この時期の三田明さんは青春歌謡歌手ではありませんでした。海外の文化を題材にした作品を歌う若手歌手として、再び人気を得たようです。
おそらく所属レコード会社であるビクターの先輩、橋幸夫さんがリズム歌謡で一世を風靡した事で、三田明さんもイメチェンをすることになったのだと推測されます。
三田明さんにとっては、「恋人ジュリー」(昭和41年)が、この時期の最大のヒット曲と考えられます。
国際的なイベントを意識した盤
「恋人ジュリー」の次にヒットした「カリブの花」は、東京五輪の次に開催されるメキシコに近いカリブ海を舞台にした作品です。
メキシコ音楽というと、昭和41年のヒット曲「蜜の味(テイスト・オブ・ハニー)」が浮かびます。ハーブ・アルパートさんが大成したアメリアッチというジャンルです。
アメリアッチはテンポも速く、トランペットの演奏が耳に残るジャズ要素を含んだジャンルで、日本でも支持を集めた作品です。しかし「カリブの花」は、のんびりとした長音階メロディで、全く異なるジャンルの作品です。
タイトル通り、カリブ海を舞台にした作品で、曲調は「バナナ・ボート」のような、昭和32年に日本で大流行したカリプソの音楽を取り入れているのだろうと感じる作品です。
なぜこの時期に、のんびりした曲調で製作が進んだのかは不明です。「カリブの花」のレコードジャケットには、発売月が1967.2と印字されています。
昭和42年2月では、まだグループサウンズがブームになる前の時期です。スパイダースさんもブルコメさんもフォークソング調の作品を歌っていた時期ですので、三田明さんの新曲もフォークソング寄りの曲調で製作が進んだのでしょう。
B面は大阪万博
A面はメキシコ五輪を意識した視点であると感じますが、B面は「世界の街で恋をしよう」というタイトルで、ハワイ、ニューヨーク、パリ、ローマ、香港、東京と様々な都市の名前が登場しています。
おそらく、大阪万博開催が決定した事を受けて、製作が進められた作品であると感じます。
実は大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」は当時のどの音楽雑誌のランキングにもランクインしていません。
三波春夫さんや坂本九さん、山本リンダさん、西郷輝彦さん、オバQと、当時の流行の第一線で活躍されていた方々が歌った競作盤ですが、どなたの作品もランクインしていません。
ヒットチャートに登場した作品のなかで、大阪万博を意識していると感じる作品は、今のところ、「カリブの花」のB面曲しか見つけられていません。
バンドプロデューサーの分析では、「カリブの花」はCメジャー(ハ長調)です。
曲情報
1967年 年間50位(歌謡曲部門)
レコード
発売元:日本ビクター株式会社
品番:SV-523
A面
「カリブの花」
作詞:山上 路夫
作曲:吉田 正
編曲:吉田 正
演奏時間:3分35秒
B面
「世界の街で恋をしよう」
作詞:山上 路夫
作曲:吉田 正
編曲:吉田 正
演奏時間:3分53秒
参考資料
「カリブの花」レコードジャケット
『ミュージックマンスリー』月刊ミュジック社
『レコードマンスリー』日本レコード振興
「バンドプロデューサー」